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句読点は呼吸するように?小説にはあえて打たない選択も|句読点記号編②|逢坂 千紘

 こんにちは、逢坂千紘(あいさかちひろ)です。

 「ことばの両利きになろう」と始まった連載ですが、おかげさまで四回目までくることができました。ありがとうございます。

 これまでのおさらいをしておくと、第一回では「重複表現」を元手にして、ことばを重ねたりことばを省いたりする効果について考えました。第二回では「ことばの圧を整える」ために検討したい三要素「語尾・粒度(詳細度)・補足詞」をハンズオンで見ていきました。前回の第三回では「記号」をどう扱うかで原稿の素性(品)が明確に伝わるという話をしました。

 大事にしたいのは、「正しい日本語」というアイデアには頼れないから、物書き自身がことばについて考えましょうということです。その土台となる部分に「校正」という技術をおいたわけです。私自身はじぶんでも校正するし、いつも個人的にお願いしている校正者さんもいます。私の原稿に書かれた素朴な疑問からことばを見つめ直すこともあるし、チャレンジングな切り込みに答えられず作家としての宿題が増えることもあります。そのすべてが潤って麗しく、どうかみなさんにもそういう環境にありついてほしいとさえ願い勇むものです。

 ただ、心理的にも金銭的にもそれはむずかしいというかたもいると思うので、ここでは校正のベースとなる「ことばを見つめる」テクニックだったり、そもそもの「ことばを考える」時間や環境そのものをつくりだす重要性を副次的にお伝えできればさいわいです。

 まえがきが長くなりましたが、今回は「句読点」について見ていきましょう。

句読法は呼吸法?

 マルやテンは書き手の呼吸にしたがって打つ、というアドバイスがあります。わかったようなわからないような、カンフーの達人の極意のようです。

 そういうときは他人の理解を手がかりにするとよいので、私の理解をたたき台にしておきます。私が「呼吸ってなんだ?」と問い詰めた結果、呼吸というのはリズムのことだとわかりました。

 リズムというのは胡散臭い比喩ではなく、晴れの日もあれば雨の日もあり、幸運な日もあれば不運の日もあるという浮き沈み、でっぱりとへっこみ、善と悪の両方のことです。言い換えれば、対立するふたつのものがひとつの生のなかに並存しているということです。

 小説のなかには、作家の自己表現したいこと、読者が文章を手掛かりに想像した独自の世界、そもそものことば(言語)の制約、書籍というフォーマットによる縛り、そういったぶつかり合うものがあります。呼吸するように句読点を打つということは、そのときの状況に応じて、表現を優先した句読点を打ち、日本語の読みやすさを優先した句読点を打ち、読者の想像した世界を優先した句読点を打ちなさい、ということだと思います。

 では、「読みやすさ優先」とか「物語優先」とはどういうことか。雲や空想を掴むような話ですが、そのハウツー化をここではチャレンジしてみましょう。

 前回の「記号」に比べれば、テンとマルしかないから簡単なようで、意外と日本語の句読点は奥が深いです。理解の助けになればと思って「呼吸法」のシーンを便宜的に三つに分けてみました。この三つが対立するので、リズムに身を任せて(状況に応じて)打ったり打たなかったりするといいのではないかと思います。

・意味(の切れ目)を明示的にする国語的句読法

   いつもどおりの読解を実現するためのテンとマル


・考えていることをメタ的にほのめかす暗示的句読法

   文章を読ませる個性的な匂わせ系テンとマル


・気持ちをこぼさないようにする物語的句読法

   ストーリーテリングのためにあえて打たないテンとマル


 話自体はそんなにむずかしくないので、ひとつずつ追いかけてみてください。


国語的句読法、いつもどおりのテンとマル

 非常に文法的なテンとマルの用法です。端的に言えば、読みやすくするための句読点、いつもどおりの文章だなと思ってもらうための句読点です。

 句点は文の終わりに入れるとして、読点が複雑なのでよくある原則を挙げてみましょう。いろいろ原則を書き出しますが、「短い場合は読点不要」とされる場合がすくなくないです。文の長さを相対的に見て、入れる入れないが変換されることも念頭においといていただきたく思います。

・主題を示す助詞のあとの読点
「春は、いつも以上にあけぼのだった。」
「夏も、これまでとはちがってあけぼのである。」

・助詞が入らなかったときの読点
「春、あけぼの。」

・接続語句のあとの読点
「春があけぼのならば、夏もあけぼのだろう。」
「しかし、秋だってあけぼのだ。」

・誤読のおそれがあるときの読点
「あけぼのの春、朝、空を眺めた。」(△あけぼのの春朝空を眺めた。)
※単独で見ればそうだけど文脈があればわかるものは読点不要という声もあります。

・列挙したときの読点
「春、夏、秋はあけぼの。」

・かかりうけが複雑な構造になったときの読点
「かつて清少納言があけぼのだとした、注目の春が訪れた。」

・語順が転倒したときの読点
「あけぼのだった、あの春は。」

 これ以外にもいろいろあるでしょうけれど、国語のときに習った伝統的な句読点です。これができていると「国語が得意なんだな」と感じます。「あるとないでそんなにちがうかな?」と思うかたもいると思いますが、読者に対して「いつもどおりの読み」を用意するのも文章の大切なおもてなしなので、避けては通れない部分でもあります。

 ただ、この国語的な句読法がほかの句読点とびっくりするぐらい対立するので、「国語が得意だから小説が得意」というひとは、この国語的な句読法だけをノーミスでやったところで小説が成立しないことにご留意ください。

 ちなみにこの章でおすすめなのは、中村明さんの『センスをみがく文章上達事典』です。


暗示的句読法、ついつい読んじゃうテンとマル

 暗示的句読法というのは、わざとへんなところで文を中止して、文章に香りづけをする装飾系の句読点です。うまく用いればほのめかしの違和感がアクセントになるので、(良質な香水のように)読む気を誘うことができます。匂わせ系というか魔性なんですね。一方で、ミスったら読み手側から絶交されることもあるので運用要注意でもあります。

 私がパッと思いついた作例みっつと、文豪の例を見てみましょう。

・「亡き母に、伝えたい。」
読点を入れることによって、単なる伝達ではないことを表現できます。「亡き母」と登場させたあと、書き手が考えていることを表示するのをやめて文を中止させた、ということになります。つまり、「亡き母に…(ほんとうは伝えられないですが)…伝えたい」というふうにも読めるし、「亡き母に…(なんで私じゃなくて母だったんだろう)…伝えたい」ということかもしれません。そういう考えの読みを誘う読点です。

・「だが、俺はずっと待っていた。」
逆接を強調する読点です。よっぽどそれが状況に反していたことを一発で伝えることができます。「だが…(俺には俺のポリシーがあったので)…俺はずっと待っていた。」でしょうか、「だが…(来はしないことぐらいわかっていたが)…俺はずっと待っていた。」でしょうか。なにかしら考えがあって、あえて表示していないことをほのめかしています。

・「不満は、爆発する。」
不満というワードのあとに中止して強調する読点です。語句自体に不穏な感じがあるので、それをそのまま利用しておっかなくさせるかたちですね。不穏さというのはなんでもいいんです。「一週間放置したカレーは、」とかでもいいんです。おっかないことば選びというか、単語で単独に脅迫するイメージです。これ以上は言わなくてもわかるな、みたいな。

 以上の作例が優れているかどうかはおいといて、イメージは伝わっていると思います。最初は使いどころがむずかしいかもしれませんが、いちばんわかりやすいのはタイトルです。本谷有希子さんの『生きてるだけで、愛。』、市川拓司さんの『いま、会いにゆきます』、川上弘美さんの『物語が、はじまる』など印象的なものも見受けられます。それから見出し、章の冒頭、会話文、ダレかけた地の文など、実はどこでも活用できるのでじぶんなりのポイントを見つけて、飽きやすい文章に香りづけをして掬いあげてほしいなと思います。

いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたでない。それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。(太宰治『待つ』)

 より応用的な例として文豪の文章を挙げておきます。ひとつひとつ解説すると日が暮れるのですが、自問自答を喜劇的に書き出してホップステップさせているんですね。句点がくるのか読点がくるのか予想できないところが、暗闇のジェットコースターみたいでおもしろいです。ついつい読んでしまいます。

 ちなみに、この章でおすすめなのは森山晋平さんの『超分類!キャッチコピーの表現辞典: 一言で目を奪い、心をつかむテクニック50』です。


物語的句読法、あえて我慢するテンとマル

 「国語が得意だから小説が得意なんです」というかたが意外と見落としている句読法です。先ほどのどこにどう入れるかという句読法と異なり、いかに入れないで済ませるか、いかに物語を邪魔しないで過ごせるか、という消極的な判断を要します。

 誤解を恐れずに言えば、意味の切れ目をはっきりさせるよりも読み手の気持ちを中止させずにキープするために、入れたいところで入れるのを我慢する句読点です。

 いちおう最大限わかりやすい具体例を挙げておきますが、テンひとつまで読んでくれる編集者や読者、あるいは校正者と出会って議論してみるのが理想的な学習法だと思います。

この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近づいてきました。するとそこのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくにつれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかり開いた花が水のおもてにうかびました。(ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳)

 これは主人公のモモが時間のみなもとと対峙する物語的なシーンです。おそらく引用した部分だけでも、句読点の置きかたが工夫されているとわかるのではないかと思います。とくに最初の「ゆっくりと」のところは、ゆっくりであることを示したくて読点を入れがちですが、それよりも読み手が重要なシーンを読んでいるのを邪魔しないような書きぶりなんですね。

 つまり、ここに読点を入れたら振子と池の接近の緊張感を中止して、わざわざ呼吸させることになるわけです。雑な例ですが「続きはCMのあと」みたいなイメージです。ほんとうに興ざめなんです。

 二文目「すると」の直後にも読点を入れず、呼吸をキープ。そのあと一回読点で区切って、新イベント。つぼみの登場です。三文目も、時間の推移を文意ごとに切り詰めた最低限の読点です。とくに原文が詩的なリズムになっているので、しっかり詩的なリズムをとりながらですばらしいです1)。

筧は雨がしばらく降らないと水が涸れてしまう。また私の耳も日によってはまるっきり無感覚のことがあった。そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じように、いつの頃からか筧にはその深祕がなくなってしまい、私ももうその傍に佇むことをしなくなった。しかし私はこの山径を散歩しそこを通りかかるたびに自分の宿命について次のようなことを考えないではいられなかった。
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」(梶井基次郎『筧の話』)

 こちらでも文豪の例を挙げておきましょう。先の太宰が修飾的で鮮やかな句読点だったのに対して、晩年の梶井の句読点は思考のリズムをキープするために修飾一切なしという感じがします。『筧の話』は掌編程度の短さなのですが、終始この調子でストイックな句読点が続くので、没入感がひとしおです。


まとめ

 ついつい国語的な句読点を機械的に入れていくのが読者フレンドリーのように思ってしまいますが、物語の流れのなかでは過剰サービスということもあり得ます。吸気と呼気のリズムを物語のなかで保たなければ、息継ぎが多すぎて息苦しくなってしまうこともあるということを強調させてください。

 おそらくここまで味読してくれたかたは、句読点を試したくなっているでしょうから、最後にひとつおもしろい題材をおいときます。

はるはあけほのやうやうしろくなりゆくやまきはすこしあかりてむらさきたちたる雲のほそくたなひきたるなつはよる月のころはさらなりやみもなをほたるとひちかひたるあめなとのふるさへおかし

 かずおおくのひとが暗記した随筆『枕草子』序段四の一です。教科書版では句読点がしっかり入っていますが、原文ではこんな感じなんですね。句読点が浸透したのは明治時代なので、清少納言世代のひとたちは句読点を用いていません。「春は、あけぼの。」なのか「春はあけぼの。」なのか。

 意味のかたまりごとに区切る国語的な句読点、読者の飽きを超えていく暗示的な句読点、物語を味わう読者を邪魔しない物語的な句読点、どの場面でどれを採用するか、最後の判断はじぶんで経験値を積むしかないでしょう。

 物語的な句読点は、児童文学作品のなかにヒントがあると思っています。とくに『モモ』のようにすぐれた翻訳者が翻訳を手がけた作品は、一文字一文字へのこだわりが濃厚に反映されているので、より感じ取りやすいでしょう。

 ここまで読んでくれてありがとうございます、次回またお会いしましょう!


1. ↑ “Als das Sternenpendel sich nun langsam immer mehr dem Rande des Teiches näherte, tauchte dort aus dem dunklen Wasser eine große Blütenknospe auf. Je näher das Pendel kam, desto weiter öffnete sie sich, bis sie schließlich voll erblüht auf dem Wasserspiegel lag.”
(逐語訳:星の振り子が今ゆっくりと次第に池の端に近づくと、暗い水から大きな花のつぼみが現れました。振り子が近づけば近づくほど、それはさらに開いていき、最後には完全に膨らみ、水面に現れました。)
実は、原文では複文が二文で、構造が地味に複雑なんです。構造が複雑化すると日本語では一気に読みにくくなるため国語的な読点を増やすことになります。それがかえって物語に没入する邪魔になるのですが、ここではリズムにあまり影響しない句点を三回に増やすことで、わずらわしい読点を最低限削って、うつくしいシーンの閑静な読みを守る方向に翻訳したのは訳者の神業だと思います。


*本記事は、2019年10月22に「monokaki」に掲載された記事の再録です。