「表現力」って何ですか?|王谷 晶
はい、というわけで先月の宣告通り一年の半分が終わってしまったわけでございますが皆様いかがお過ごしでっか? 王谷晶である。
今年の上半期はとにかく全国、いやさ全世界的にいろいろなことが起こった。まだ収束していないウイルス問題、それに引っ張られるように各地で可視化された社会問題について、フィクション・ノンフィクション問わず大量のテキストが生み出されていくだろう。
こういう、大きなイシューについていろんな書き手が喧々諤々と作品を書いていくときに、諸君にぜひ注視してほしいポイントがある。
今回のお題の「表現力」である。
内容の是非はいったん置いておいて、同じ事象に対してこの書き手は距離を取ってクールに表現しているとか、こっちの人はエモく真に迫って描いているとか、あの人は冷静ぶろうとして失敗してるとか、いろいろと表現力の読み比べができるからである。
「表現力」とは第三者に受け止めてもらう工夫と技術
とりあえずまず、表現力とはなんぞや。表現というのは、「受け手」すなわちその表現を鑑賞する第三者が必要なものとそうでないものがある。
自分が作って自分が鑑賞して自分だけ満足すればいいという表現は、究極、自分にだけ分かればOKである(もしくは作ることが大切で作り終わったらあとはどうでもいいというタイプの作品等)。
しかし第三者、他人の受け手を必要とする場合は、ただの表現に「力」が必要になってくる。つまり、他人に受け止めさせるための工夫と技術だ。この他人は万民でなくてもいい。たった一人に向けてでもいいし、クラスメイトにだけみたいなターゲットでもいい。
とにかく自分以外の誰かに何かを訴えなければいけないときは、赤ちゃんだってオギャアと可能な限りでかい声で泣くのだ。
ややこしいが、これは「他人にわかりやすいように書け」ということではない。そもそもわかりやすく書くことはわかりにくく書くことの千倍難しいので、まずは「自分の持っているビジョンを明確にする」ところから始めよう。
YOUは何のためにこの表現を?という問を自分に向けるところから、表現力のビルドアップは始まる。べつに高い意識や崇高な目的がなくてもいい。
「この前読んだ漫画が面白かったからああいう雰囲気のかっこいい何かを書きたい」みたいなフワッとしたのでもOK。とにかく表現する動機、ベースにある欲望をまず自分の中で明確にする。
短編をたくさん書き上げる筋トレをしよう!
そうすると、おのずと「自分がこの作品で何を表したいか」がクリアになってくるかと思う。あとはそれを効果的に浮かび上がらせるための表現方法を模索し、フォーカスしていけばいいだけだ。なので表現力を鍛えたい! と思ったら、まずは短い話をたくさん書くのを、私としてはおすすめしたい。
一本の話をオチまで作るという作業は、文章力や表現力を上げるために絶対に必要な経験だ。これをやればやるほど小説の筋トレになると思ってくれてもいい。
書く動機となったビジョンを、最後までキープし一つの世界を完成させる。反省点がそこで出てきたら、また別の話を作りより表現を研ぎ澄ませていく。この作業がなんだかんだで一番の修行になる。
最近は最初からwebで大長編を発表する人も多いので、もしかしたら「まだ一度も物語のおしりを締めたことがない」という書き手もいるかもしれない。
千文字くらいの超短編でもいいから、まずはきっちり完結した話を作る経験を積んでほしい。
オチまでつけないでほっぽり出した話、もしくはえんえんとオチをつけない作文は、ダンベルを握ったまま持ち上げないでいるか、逆に持ち上げっぱなしで下ろさないヤバい人みたいなものだ。ダンベルを上げて、そして下げることで、筋トレは完結する。そして完結させた作品だけが、自分の、そして他人の正当な批評を受けられる。
初心者が陥りがちな「微に入り細を穿つ」こと
若干話しがそれたが、それではどういう小説が「表現力たか〜い!」と思ってもらえるのか。ビギナーのうちに陥りやすいのが、「とにかくなんでも微に入り細を穿って書けば細やかな表現になると思い込んじゃう期」だ。
確かに、主人公の部屋の布団の模様から朝一番に顔を合わせたおかんの白髪の本数まで細かく細かく描写していけば、その世界が「どんな風」かは書き記せるだろう。が、そんなもんほとんどの読者はうざくて読まずに途中で放り出すし、作者の脳内にある情景をそのまんま写し取ったから「表現した」とはならないのだ。
先にも言った、「表現したいこと」「そこへのフォーカス」が重要になる。そのシーンで言いたいこと、読み取ってほしいことは何か? それが読み手にバシッと届くかが大事なのだ。だから十ページ費やした情景描写より一行のセリフが表現としてホームランを飛ばすことがある。
他人の作品を読んでどこに「わかりみ」「目に浮かぶ」「どういうこと?」等の情動を得たか注視し、それがどういう表現によってもたらされたのかをチェックするのも大切だ。
人がやった失敗は自分がやらないように気をつければいいし、いい塩梅だなと思ったものはパクりにならない程度にエッセンスをいただけばよい。
(ちなみに微に入り細を穿ちなおかつ表現力が高い作家の代表格は、ゴッドオブエンタメ作家スティーブン・キングだと思う。こまごまとした描写をえんえんと続けても飽きさせない技術はまさに神域。一朝一夕にマネできるものではないが、物書き志望者なら必読な作家の一人)
タイトルからただものではない歌集
今回のおすすめ作品は歌集、短歌の本だ。『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也・岡野大嗣(共著)。もうタイトルからただものでない感があるが、これは二人の歌人がそれぞれ男子高校生になりきって七月の七日間の出来事を短歌で綴った本なのだ。
ハイ・コンセプトかつハイ・コンテクストな一冊だが、読み始めればある種の青春、すなわち教室の隅でシコシコオリジナル小説を書いたり誰も借りていない図書室の本をニヤニヤしながら読んでいたような青春を過ごした諸君にはビッと来ること間違いなしの世界が展開されている。
五七五七七のソリッドな文字数の中に立ち上ってくる不穏さとその理由。繰り返し読むことで確かに浮かんでくる情景。細やかに説明するだけが「表現力」ではないことを突きつけてくれるはずだ。
(タイトルカット:16号)
今月のおもしろい作品:『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』
著:木下龍也、岡野大嗣 挿込小説:舞城王太郎
装画写真:森栄喜 装丁:大島依提亜 ナナロク社
新世代歌人による新時代歌集が誕生しました。
男子高校生ふたりの視点で紡がれた、七月一日から七夕までの七日間の物語歌集。
ひとつひとつの歌は物語の断片を彩りながら、その強い光を放っている。
日常から徐々に滲みだす青春の濁りを、新鋭歌人ふたりによる217首の歌が描きだします。
ふたりがむかえる七日間の結末とは。本書をぜひ開いてください。