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カタカナ語は時代を反映する諸刃の剣|カタカナ(外来語)編①|逢坂 千紘

 こんにちは、逢坂千紘(あいさかちひろ)です。

 「ことばの両利きになる」というホークーレアをめざして、ここまで二個のテーマを四回にわけて書きほぐしてきました。ここで初めましてのかたは、どこから読んでもだいじょうぶな連載にしてありますので、気になったタイトルを入り口にして、ことばのツールバーに入ってみてください。

 今回は「カタカナ編」ということで、ものを書くうえで避けては通れないカタカナや外来語について前後半にわけて考えていきたいと思います。
 漢字やひらがなのバランスのとりかたに慣れてきたひとでも、カタカナで転んだりすることがあるので押さえておきたいポイントと言えるでしょう。前後半で分量も長くなっていますが、正続あわせてたのしんでいただけるとうれしいです。

※当連載・当記事は物書きのための「ハウツー」として記事構成しているため、万葉仮名からつづく歴史や体系についての解説はいたしません。

一意に近づけるための経済的なカタカナ表記

 カタカナ表記は、文脈を推定したり意味を解釈したりするコストを大幅に削減するために用いられます。このことばをカタカナ書きにしたらこういう意味や文脈ですよ、というのが定着しているということです。

 たとえば「ケータイ小説」では、「携帯できる小説」のことではなくてケータイで読める小説であるという合図としてカタカナ表記が大活躍しています。これが「携帯小説」でもいいのですが、「ケータイ小説」としたほうが単語だけでおおくのことが伝わるということです。

 ほかにもニュースメディアでは誤読を避けるために「カネ」「コメ」などとカタカナ書きすることもしばしばあります。「金=ゴールド」と「米=アメリカ」との混同がよくあるためですね。
 念のため共同通信社の『記者ハンドブック』(第13版第5刷)を見てみたら、「カネ余り」「政治とカネ」については乱用注意、「コメ」はカタカナにすることが多いと注記がありました。「選挙は明日がヤマ」「ヤミ金融」「カラ出張」「ドヤ街」など、ニュースメディアらしい表記もいくつかあります。このあたりはニュースをよく読むひとにはなじみのある表記やニュアンスです。

 また、外国人からみた(なんでもありの)寿司というニュアンスの「スシ」、いよいよ作家を拘束して締め切りを守らせる「カンヅメ」、野球で試合を決める一打の「サヨナラ」、世間が賑わいそうな「特ダネ」、行動が伴わないことを印象づける「タラレバ」、金に困りながら軽やかな「ビンボー」、教訓や地口らしさを強調するための「イチかバチか」や「アメとムチ」や「ワカルはカワル」などのカタカナ表記も特徴的で、おおくは定着していると言えるでしょう。


「ウチら」というつながりを強化する作用

 このような語彙として定着してきたカタカナ書きであれば、読み手に負担を強いることなく最短で文脈を敷くことができます。その手口をさらに拡張していくと、「内輪のノリ」をつくりだすことができます。

 たとえば、「ナカマに会いに行こう」とか、「今度こそ私たちのオンガクを」とか、「あのときから変わらないキズナ」のように、あえてカタカナ書きが定着していないことばを無理して一意にすることで、一気に「知っているひとだけが知っているドメスティックなノリ」を醸しだせるんです。

 つまり、その輪のなかに入っていないひとにとって「ナカマってだれのこと?」「オンガクってなんのこと?」「キズナってどれのこと?」という疑問が残るような排他的な空気をつくって、輪のなかに入っているひとたちのつながりを強化できます。

 これは小説内で世界観をつくるときに向いていて、さすがにひとさまの作品を例にするわけにはいかないので例を自作してみます。わかりやすく会話文でやってみますね。

「周りがみんな結婚していくんだよね」
「結婚ラッシュ、ついに来た?」
「来たよ来た、私は相手もいないけど」
「いるっちゃいるでしょ、付き合わないの?」
「キッカケがねえ」
「なんでもいいんだよ、キッカケなんて」

 たとえば、こういうトークがあったとして、ここでの「キッカケ」というのは、物事を始めるための手がかりという意味だけではなくて、もっとドメスティックでふたりだけの狭い人間関係的なニュアンスをもっています

 つまり、相談役が「なんでもいいんだよ、キッカケなんて」と言っていますが、これはなんでもいいわけではないからこそ雑な言い草になるんです。このふたりのあいだには、本来であれば男からアプローチがあって、デートを重ねて、友だち以上の関係になって、そこで初めて付き合うことを強く意識して、というリソウテキな流れがあるんですね。

 そのようなじぶんたちにとって正しい手続きが実現されてほしいと願う切実な気持ちを「キッカケ」ということばに託しているんです。
 この関係の機微(ふたりが積み重ねてきたもの)がカタカナ表記によって香ってくるのがわかってもらえるでしょうか。「切っ掛け」という表記では、どちらかというとほんとうに手がかりや動機を求めている印象になると思います。


カタカナは「イマ」を反映するが、「アト」で化石化しやすい

 カタカナ表記が「ウチら」の合図となることを確認しましたが、もうひとつ「イマココ」の澪標にもなるんです。つまり、カタカナ書きが時代を反映するということです。

 たとえば、2000年代初頭に「ケータイ」と表記したら、近未来感、ガジェット感、流行感というのを表現できたと思います。それから時代が進んで携帯電話があたりまえのものになり、スマートフォンという次世代機器が登場しました。いまはもう「ケータイ」はむしろ時代遅れ感、ローテク感、独自路線感という印象をもつかもしれません。

 ここには作品の成否や強度にかかわることばの時限があります。時代性を強調してくれるカタカナは宿命的に短命で、だからこそ、その時代の雰囲気がしっかり出やすくなるよさもあれば、何年後もずっと読める普遍性は失われやすいです。両立することも不可能ではないけれど、単語の表記ひとつで思わぬ損ないかたをしてしまうこともあるということが言いたいことです。

 余談で私自身の話になりますが、文章が古いというだけで読めない名作がいくつもいくつもあります。すごく読みたいし、読んでみんなの話に参加したいし、教養としても読んでおきたいけれど、私にとっては化石的な「メーサク」になってしまっている作品はたくさんあります。それは作品の表面表層しか見ていないとじぶんでも思うのですが、ことばを頼りに作品に入っていきたい性格なのでなかなか難儀な場面があるんですね。


「ソフト異化」は読み手を離さない文体の圧力にもなる

 前半の最後に「異化」という創作的なキーワードで、ここまでの話をまとめてみましょう。

 定着していないカタカナ表記というのは、内輪のノリ(ドメスティックな空気)をつくりだすのに向いているという話をしました。それは定着した語彙(手垢のついたことば)を漂白して、一度「わからなくする」技法とも言えます。

 わかっていたはずのことばがわからなくなる、それに対して驚いたり考え込んだり感情的な反応をする、これを「異化」と言います。もとのロシア語では「オストラネーニエ oстранение」です。

 カタカナ表記には、カジュアルな異化、ソフトな違和感があります。たとえば、「ワタナベノボル」といえば村上春樹さんの作品の登場人物ですが、最初に読んだときは衝撃的だったのを覚えています。よく出てくるわりによくわからない人物像で、カタカナの違和感とつながって不思議な印象でした。もちろん作品自体もおもしろいけれど、ソフトに異化された「ワタナベ」に感応するようにして、どんどん読み進めたんですね。

 漢字書きにするか、ひらがな書きにするか、小説内の風通しを気にするときに表記は欠かせない要素となります。その選択肢のなかに、その剪定作業のなかに、カタカナ表記によるソフトな異化があればもっと感情的なタッチにすることもできます。「ワタシ」とか、「キズ」とか、「恋バナ」とか、「ヨメはん」とか、「激ヤセ」とか、いまでもやっぱりドキッとします。いいとかわるいとかよりも先に、ヘンな感じがします。そこには異化効果があります。感情の根本の部分で読み手を離さないようにする文体の握力があります

ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 宮沢賢治は『雨ニモマケズ』の4段目であえて漢字をいれずにカタカナで通しました。当時の仮名教育の事情などもあると思いますが、カタカナだけで書き上げたのには異化の狙いがあったと思います。いまあらためて読んでも彼にとって「ヒドリ」とはなんだったのか、「ク」というのはなんだったのか、惹きつけられるものがあります。これが「日取り」や「日照り」だったり、「苦」と書かれていたらここまで魅了されなかったかもしれません

 カタカナ語を学ぶというのはむずかしいことかもしれません。だけど、飼い慣らしてしまえばそんなにワルいヤツではありません。後半では「外来語」にポイントをあてて、カタカナというものを深掘りしていこうと思います。ぜひお付き合いくださいませ。


*本記事は、2019年11月26に「monokaki」に掲載された記事の再録です。

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