青春ミステリーは「豊かで平和な時代」の外へと誘う|米澤穂信と桜庭一樹|仲俣暁生
子ども向けの読み物と大人向けの読み物の中間段階、いわば階段の踊り場のようなものとして、かつてはジュヴナイルというジャンルがあった。アメリカではヤング・アダルト(Y・A)などとも呼ばれる、おもに十代向けの物語である。日本ではその市場を、ある時期から「ライトノベル(ラノベ)」と呼ばれる軽い読み物が席巻するようになった(この分野については本連載の共著者である前島賢さんの回で詳説されている)。
1990年代以後、こうした「ラノベ」市場に向けてさまざまなレーベルが生まれ、表現ジャンルとして細分化していった。そこから傑出した書き手が幾人も登場し、広い読者に向けた普遍性のある物語を紡ぐようになっていく。
そうした書き手の代表格として、今回は米澤穂信と桜庭一樹を取り上げたい。
やる気のない「名探偵」が成し遂げた偉業
米澤穂信は平成13年、第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞を受賞した『氷菓』という作品でデビュー。この作品は同年に角川スニーカー文庫の〈スニーカー・ミステリ倶楽部〉の第一回配本として刊行された。また平成29年には安里麻里監督によって実写映画化もされている。
『氷菓』はこんな話だ。ある地方都市の高校で廃部目前となっている文科系サークル〈古典部〉を、そのOGである姉・供恵の命令で1年生の折木奉太郎が復活させたことから、物語は動き始める。だが、そもそも奉太郎には〈古典部〉の活動に本気で取り組むつもりがない。この小説の前提になっているのは、オーソドックスな「青春」(そして「青春小説」)はもはや不可能である、ということだからだ。
「氷菓」とは〈古典部〉が出す文集の名前だが、このバックナンバーを読む過程で奉太郎たちは、33年前に同高の文化祭で起きたある事件の真相を知ってしまう。この小説内における「33年前」とは昭和42年、いわゆる学園紛争の時代である。この時代と物語のなかにおける「現在」との、あまりに大きな懸隔。それはある意味で残酷な真実を奉太郎たちに突きつけるものでもあった。
この小説の最大の謎は、〈古典部〉はなぜそのように呼ばれるのか、ということにある。その解釈は個々の読者に委ねられているが、私は奉太郎たちが〈失われていた知の復興=ルネサンス〉を成し遂げたからだ、と解釈したい。いかにもやる気のなさそうな奉太郎が、この作品で図らずも「名探偵」となるのはそのためだ。
以後、〈古典部〉を舞台にした作品はシリーズとして書き継がれていくが、第二作の『愚者のエンドロール』を最後に角川スニーカー文庫という「ラノベ」のレーベルを離れ、以後は角川書店から単行本で刊行されるようになっていく。
ミステリーと青春小説の完璧な一致
「デビュー作にはその作家のすべてがある」とよく言われるが、それは米澤穂信と『氷菓』にもあてはまる。それは「ミステリー」であることと「青春小説」であることの、ある意味での完璧な一致である。それは長編第3作『さよなら妖精』によって、空前絶後のかたちで成し遂げられることになる。
『さよなら妖精』は人口十万人とされる架空の地方都市、藤柴市を舞台に描かれる風変わりな青春ミステリーだ。ときは平成3年。ユーゴスラヴィアからやってきた17歳の少女マーヤがこの町に2ヶ月ほど滞在する。彼女は政府高官の娘で、やがては政治家になることを志しているという。地元の高校3年生である語り手の「おれ」(守屋路行)とその仲間たちはマーヤを暖かく迎え入れ、和やかな交歓の日々が続く。だがこの間にマーヤの故国では内戦が勃発していた。
マーヤの出身地はユーゴスラヴィア連邦を構成する6つの共和国のどの都市なのか。彼女の帰国から一年後、「おれ」は当時の自分の日記を読み返しながら解き明かそうとする。だが『さよなら妖精』はその謎解きが進むにつれ、読者にもう一つの真実を伝えることになる(ミステリーと青春小説の完璧な一致とは、そのことを指す)。
マーヤと出会った後、「おれ」はこんな風に思うようになる。
おれは、これになら賭けてもいいと思えるようななにものにも出会ったことがない。その価値があると思えるものに触れたことがない。おれはそれを、仕方のないことだと思っていた。二十世紀の日本で生きるに問題のない生活を送っている、その望んでも得られない幸福のいわば代償だと。しかしそれはそんなに遠いものなのか? 現にマーヤはここにいるというのに。
ユーゴスラヴィア。どんな国なのだろう。
『さよなら妖精』ははじめ、〈古典部〉シリーズの第3作として構想されていたという。その事実を知ってから読み返すと、たしかに守屋にはどこか奉太郎の面影があるし、『氷菓』で重要な役割を果たす奉太郎の姉・供恵が、海外のさまざな場所から奉太郎に宛てて手紙を送ってきたことの意味も、ようやく理解できる。
「山陰マジックリアリズム」の奇跡的作品
桜庭一樹は平成11年に第1回ファミ通エンタテインメント大賞小説部門佳作を受賞した「夜空に、満点の星」でデビュー。同作は『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーティアン』と改題され、同年にファミ通文庫から刊行された。以後、富士見ミステリー文庫、スニーカー文庫といった他のライトノベル・レーベルからも作品を次々に発表していくようになる。平成15年に富士見ミステリー文庫から出た『GOSICK -ゴシック-』は大ヒットし、このシリーズは13巻を数える大作となった。
こうしたライトノベル作家としての活動と並行して、桜庭一樹もやはり、より広い読者層にむけた作品を手がけるようになっていく。過渡期的な作品として平成17年に『少女には向かない職業』(東京創元社ミステリ・フロンティア)、『ブルースカイ』(ハヤカワ文庫JA)などを発表したのち、平成18年に東京創元社から刊行された『赤朽葉家の伝説』は、空前絶後の奇跡的作品だった。
それは鳥取県(桜庭一樹の出身地)にあるとされる架空の町・紅緑村を舞台とした、祖母から孫娘までの女三代にわたる物語である。コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や、チリの女性作家イサベル・アジェンデの『精霊たちの家』、あるいはイギリスの作家ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』を思い浮かべたと作者本人も語るとおり、世界文学にも通底する「全体小説」である。いわば「山陰マジックリアリズム」とでもいえるこの作品は、直木賞候補(惜しくも落選)となったほか、第60回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を見事に受賞した。
この物語は紅緑村で古くから製鉄業を営む赤朽葉家に嫁いできた、サンカ(山窩)の末裔と思われる万葉という名の女と、その娘・毛鞠、孫娘・瞳子までの三代記だが、終始一環してその「語り手」となるのは、21世紀を生きる赤朽葉瞳子である。
万葉が主役となる「第一部 最後の神話の時代」では元号でいえば昭和28年から昭和50年までが、赤朽葉毛鞠が主役となる「第二部 巨と虚の時代」では昭和54年から平成10年までが、そして赤朽葉瞳子が主役となる「第三部 殺人者」では平成12年から未来までが描かれることになる。
モラトリアムの息苦しさを描く
こうした三代記としての『赤朽葉家の伝説』の全体を貫くのは〈未来視〉という超能力をもつ万葉という女のカリスマ性だ。万葉の奔放さは、彼女が息子や娘につけた名前からも伺える。長男の名は「泪」、長女は「毛鞠」、次女は「鞄」、そして次男は「孤独」(このうち「泪」は若くして不慮の死を遂げることになる)。
人気漫画家として短い生涯を駆け抜けた毛鞠は、万葉のそうした性質の一部を受け継いでいる。だがこの物語の語り手の瞳子自身は、次のように感じている。
大志もなく、派手にお金を使いたいといった欲もあまりなかったので、稼いで豪遊するといったことにも興味はなかった。自分らしさを奪われてまで、社会において何者かになりたいとは思えなかった。納得できないのにむりに頭を下げたり、うなずいたりするのはいやだった。そうして大人になっていく日々の、しかしなんという、息苦しさ。わたしは改めて、自分が自由という名になるはずだったということを思い出して、悶々としていた。食うにもこまらず、ぶらぶらしているだけの自分はいま、はたして、自由なのか。わたしたちにとって、自由とはなにか。女にとって自由って、いったい、なんだ。
瞳子のこの述懐を一読してわかるのは、『さよなら妖精』の語り手である守屋の語りとそっくりであることだ。「これになら賭けてもいい」と思えるようなものと出会うことのないまま続く「生きるに問題のない生活」。まさに平成という「豊かで平和な時代」が可能にした長いモラトリアムのなかにいつづける息苦しさを、守屋も瞳子も感じている。
もちろん、これらの小説の作者である米澤穂信や桜庭一樹は、「これになら賭けてもよい」と思える対象を見つけている。二人にとって「小説を書く」とはそういうことだ。そして米澤穂信も桜庭一樹も自分の読者たち――もちろん「ライトノベル」の読者も含めて――にも、そのような対象との出会いが訪れてほしいと願っている。だから『さよなら妖精』や『赤朽葉家の伝説』は、たんなる「ライトノベル出身の小説家が書いた一般文芸作品」ではない。
いまいる「時代」や「場所」の外へ
かつてのような「古典的な青春」を送ることは、平成というこの時代にはすっかり不可能になってしまった。それでも思春期にある人は長く不安定な時期を過ごさなければならない。米澤穂信と桜庭一樹の共通点は、そうした若い読者たちに向けて、いまあなたたちがいる「時代」や「場所」の外には、もっと広い「世界」があるのだと語り続けた小説家であるということだ。
守屋のガールフレンドで『さよなら妖精』の副主人公ともいうべき太刀洗万智は、十年後の平成13年を舞台とする長編『王とサーカス』(平成27年、東京創元社刊)で語り手となる1)。28歳を迎え、新聞記者を経てフリーのジャーナリストとなった彼女はこう語る。
知は尊く、それを広く知らせることにも気高さは宿る。
これはミステリー作家・米澤穂信にとっての偽らざる信念でもあるだろう。
いつか「これになら賭けてもいいと思える」ものに出会えたとき、人はやっと真の「自由」を手に入れることができる。平成という時代を象徴するこの二つの記念碑的な作品は、若い読者にそのことをいまも伝えてくれている。
1. ↑ なお、同年にやはり東京創元社より刊行された『真実の10メートル手前』に収められた表題作の短編は、本来『王とサーカス』の第一章として執筆された。「太刀洗万智自身を語り手とした小説を書くべきかどうかは、検討を要した」と、作家自らあとがきで語っている。
『さよなら妖精』
著者:米澤穂信 東京創元社(創元推理文庫)
1991年4月。雨宿りをするひとりの少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。
遠い国からはるばるおれたちの街にやって来た少女、マーヤ。彼女と過ごす、謎に満ちた日常。そして彼女が帰国した後、おれたちの最大の謎解きが始まる。
謎を解く鍵は記憶のなかに――。忘れ難い余韻をもたらす、出会いと祈りの物語。
『赤朽葉家の伝説』
著者:桜庭一樹 東京創元社(創元推理文庫)
“辺境の人”に置き忘れられた幼子。この子は村の若夫婦に引き取られ、長じて製鉄業で財を成した旧家赤朽葉家に望まれ輿入れし、赤朽葉家の“千里眼奥様”と呼ばれることになる。これが、わたしの祖母である赤朽葉万葉だ。
――千里眼の祖母、漫画家の母、そして何者でもないわたし。旧家に生きる三代の女たち、そして彼女たちを取り巻く一族の姿を鮮やかに描き上げた稀代の雄編。
*本記事は、2018年12月11日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。