「お水」?「チェイサー」? 外来語のニュアンス|カタカナ語(外来語)編②|逢坂 千紘
こんにちは、逢坂千紘(あいさかちひろ)です。
おかげさまで、当連載『ことばの両利きになる』も第六回まできました。振り返れば短くも長い旅でしたが、いずれの回で書いたことでことばとの付き合いに新たな光が見えたらうれしいです。今回の「外来語」がラストレグになります。
カタカナ語(外来語)編の正編『カタカナ語は時代を反映する諸刃の剣』では、カタカナの効果について考えました。意味がひとつに決まったり、あえて疎外感と内輪感が出せたり、ちょっとした異化につながったり、カタカナの動きを追いかけた感じですね。「漢字やひらがなには慣れてきた」「カタカナ目線を知りたい」という物書きさんにぜひ読んでいただきたいです。
続編の目的はカタカナ書きのドリルダウン、あるいはとくにカタカナのなかでもカタカナしい「外来語(洋語)」のブレークダウンです。それではさっそくスタートしましょう、カウントダウン。スリー、ツー、ワン。
外来語表記、絶対のルールはないけど運用の方針はあったほうがいいかも
まず外来語の表記をどうするかがいちばん気になるポイントですよね。
あらゆる外国語の発音をカタカナだけで写し取るのはむずかしいので、外国語を取り込むときに(その時々の)日本人の感覚が反映されたり、利便性が優先されたり、それぞれの場所で統一見解があったりすることもあります。そのため、どうしてもめちゃくちゃになってしまうものです。
いまのところ、グローバル意識のもと外国語を学ぶひとのことを思って「オリジナルの発音に表記を近づけよう」という風潮を感じることもあります。「イエロー」ではなく「イェロー」とか、一理ありますが、完全無欠とはいかないでしょう。
「ニューヨーク(New York)」は「ヌーヤーク」となるでしょうし、「ロサンゼルス(Los Angeles)」は「ラーサンジェリーズ」となるでしょう。印刷機の「トナー(toner)」は「トーナ」、ファストファッションブランドの「ザラ(ZARA)」は「サラ」、ドイツのお菓子の「マジパン(Marzipan)」は「マサパン」、「メジャー(Major)」は「メイジャー」、「スタジオ(studio)」は「ステューディオウ」、「コーヒー(coffee)」は「コーフィ」、「ラジオ(radio)」は「レイディオ」になります。あるいは、「ジェ」という音がむずかしくて「ゼリー(ジェリー)」「ゼネラル(ジェネラル)」になっているなどとひとつずつ改めるために、こういった部分で読者と合意をとっていくことになります。
一方で、校正的な観点では「過剰修正(ハイパーコレクション)」にも注目です。過剰修正というのは正しくしようとしすぎて余計な修正をしちゃうことで、たとえば、「ヴ」をちゃんと反映しようとしすぎて、「デヴュー(début)」「ヴェートヴェン(Beethoven)」「ヴァルカン(Balkan)」「セルヴァンテス(Cervantes[スペイン語の‘v’は‘b’の音])」など、本来「バビブベボ」でいい音まで「ヴ」としてしまうこともあります。こちらは要注意と言えるでしょう。
どこまでどうするべきなのか、それぞれの方針や基準、あるいは風潮などがあると思います。それでも迷ってしまって作品が書けなくなるというときは、共同通信社の参照している『記者ハンドブック』や、今年改訂版が出たばかりの『朝日新聞の用語の手引』など新聞社のストイックなガイドライン1)を参照しておけばひとまず安心というのもひとつのテクニックだと思います。
そもそも外来語とカタカナ
前回、カタカナには排他感があるという話をしました。「仲間に会いに行こう」よりも「ナカマに会いに行こう」のほうが、ニュアンスの通じるひとが少なそうな印象があります。
この排他性には、外来語由来の「舶来」のニュアンスがあります。それはどこかよせつけない印象だったり、なじまない感触だったり、キモチワルいノイズだったりします。
もちろん、たどって考えれば最初は「漢字」という舶来の文化を日本風に取り込み、明治時代には「英語」という舶来の文化を日本風に取り込むことに成功しました2) 。つまり、「philosophy」は哲学になり、「human」は人間になり、「society」は社会になり、「electricity」は電気になり、「right」は権利になったわけです。
ただ、当時の翻訳の努力は「日本人の急務」3) として、ごくわずかな知識人のオーバーアチーブによってなされたので、けっきょくよくわからないものも残ってしまいました。たとえば、「哲学」「関数」「理性」「確率」「交際」「忖度」「価値」「時間」「愛」「意識」「言語」「存在」「個人」「自由」「自然」「結核」「癌」「文化」「品格」というひとつひとつの日本語は知っているしわかるけれど、いざなんのことを聞かれたらすんなり答えられるものはほとんどないでしょう。
翻訳して取り込むことは素晴らしかったけれど、溶け込ませたことで意味不明になっていることばもたくさんあります。だったらカタカナのままのほうが「もともと日本語じゃない」ことがわかっていいんじゃないか、というのがいまの「カタカナ偏重」の風潮だと思います。
外来語のニュアンスと現地化(漂白化)
中国語も外国語も、取り込んだときにローカライズ(現地化)されます。
たとえば、長く滞在するという意味の「逗留(とうりゅう)」の「逗」には、おもしろいとかおかしいといったエモーショナルなニュアンスがあります。中国のネットスラングには「逗比(dòubǐ)」という略語があって、おもしろくておかしいひとのことです。「逗人(dòurén)」は愛想のことです。
そういったエモの香りは限りなく消臭されて「長期滞在」の意味だけがカスタマイズされて日本語に残っています。それが良いとか悪いとかではなく、ローカライズというのは一般的にそういうものなんですね。
ほかにも「浩瀚」にはさんずいがたくさんついています。このことばには「水のとてつもない広がり」といったニュアンスがあるんです。一方で、日本語の意味では「書籍が多いこと」をかっこよく表現するときの美辞麗句のようです。文語の文語らしさを支えてくれています。
英語を見ればおなじように、「shopping」には「お店をまわったりして比較検討する」ニュアンスがあります。何件もお店を回って検討する経済行動を「買い回る」と言いますが、このことばに近いニュアンスです。ローカライズされた「ショッピング」というカタカナ語に強烈な印象はなく、マイルドな感じを受けますね。でも、「ショッピングしたい」と言われてコンビニに案内することはあまりないことを考えれば、これはこれでショッピングのちょっとした意気込みが残っているからだと思います。「ウィンドウショッピング」は非常に近いニュアンスのまま輸入されていると言えますね。
逆に「trauma」はもともと単なる傷のことで、学問では強いショックによる心の深い傷のことですが、「トラウマ」は非日常的な怖い体験のようなニュアンスで用いられています。
100%純度の正しい日本語があれば理想的ですが、そんなことはぜんぜんなくて、薄めたり、火を通したり、消臭したり、添加物をいれたり、燻したり、めちゃくちゃです。意味もニュアンスも、用いるひとによって窯変していくものです。
どの外来語を知っていて、どんなふうに用いるのかでキャラの生態を描く
第三回の記号編で「記号の用いかたで原稿のことが明け透けになる」という話をしましたが、外来語もまた「キャラクターの生きている土地柄が見え見えになる」道具立てです。
どれだけ西洋の風土と近いところにいるのか、どれだけ西洋の文化に憧れているか(取り入れたいと思っているか)、外来語も翻訳語も両方知っているときにどちらを用いるのか、外来語のニュアンスをどれだけ漂白しているか、そういうキャラクターのふところをことばで描くのに向いています。
いくつか具体例を書いてみましょう。どんなところでがんばっているひとか想像してみてください。
「前職では基本トピックブランチで、ギットのデベロップブランチにマージしたソースコードをデプロイしてそのままプロダクション環境に同期していました」
「ああ、でもそれだと同期のタイミングとか気遣いそうだね。運用面でどうしてたとかある?」
「いちおうサーバーかなんかのシンクスクリプトが走ってそれ用のノーティフィケーションが自動で出せるようになってたりとか」
「事前にアプルーブとかオースとか」
「チャットでそういうのもありましたね」
「なにかいいことでもあった?」
「来週アメリカに行くの」
「え、アメリカ。なんでまた?」
「タレントエージェンシーからオープンコールがあるからアメリカに来いって。ついでにショートムービーのオーディションにもアプライできるって、まるで夢みたい!」
「ここに書いてあるファンと一緒に価値をつくるっていうのはどういうことなんでしょうか」
「それは、サービスドミナントロジックというのがあって、すべてのマテリアルもプロダクトもサービスなんだと考えるマーケティングロジックだと思ってください。たとえば自動車のセールスバリューは、ドライバーの持っているドライビングスキルによって初めて成立するわけですから、自動車のカスタマーをバリュークリエイションパートナーとして捉え直すことができるわけですよね。それと一緒で、これからセグメントの調査を進めてスモールマスなどを軸にして特定したファンをバリューネットワークに巻き込めるコンテンツを企画していく考えかたのことです」
ひとつひとつの外来語については解説しませんが、実際にこういうふうな会話をします。
ひとつ目の例が開発者、ふたつ目の例がアメリカでの芸能人(下積み)、みっつ目の例がコンサルタントです。カタカナ偏重と言えばそれまでですが、「人間」に敏感な物書きさんであればそれだけでは済まされないものが確かに見えてくるのではないでしょうか。
私だってときどき、「お水ください」でいいのに「チェイサーください」とか言ったりします。あのときの私は、お水じゃなくてチェイサーが飲みたいんですね。それはちょうど連載第一回で例に挙げた「頭が痛い」と「頭痛が痛い」のちがいに似ています。頭痛っていうことばも、痛いっていうことばも言いたかったら、頭痛が痛いになるに決まってるんですね。そのことばを選ぶしかない超絶パーソナルな理由があるんです。
用いるかどうかの基準
だけど推敲しているとき、校正をしているとき、「お水」なのか「チェイサー」なのか、あるいは「手品」なのか「マジック」なのか、「理屈」なのか「ロジック」なのか、「賦活」なのか「アクティベーション」なのか、「適応業務」なのか「アプリ」なのか、「淳久堂」なのか「ジュンク堂」なのか、とことん迷ってしまうこともあると思います。そういうときは、それしかないと確信するまでことばのニュアンスのちがいを追い求めてみるのがいいでしょう。
先日、メゾンブックガールの和田輪さんが「『バイブス』のバイブス以外の言い方知りたい」とツイートされていました。そこには「テンション」「フィーリング」「グルーブ」「高なり」「魂」「心の襞の顫動」などと素晴らしいメンションが飛んでいました。それを読みながら、私自身、バイブスのバイブス以外の言いかたというのはなかなか掴めないと衝撃を受けたのを覚えています。
若者言葉や流行語として大人からわかった振りされがちなことばに、すくなくとも私は、ほかのことばでは置き換えられないじぶんの細やかな感情を託していたんだと気付かされました。
「お水」に託している感情と、「チェイサー」に託している感情はきっとちがいます。これを読んでくださっている物書きさんにも、そういうことばがいくつかあると思います。チェイサーのチェイサー以外の言い方はきっと私にはずっとわからないし、たぶん私はそれでいい。言い換え可能だったことばが、言い換えできなかったことに気づくときに、カタカナ語や外来語が、もっと生き生きしたことばに感じられるのでしょう。
わかりやすく言えば、テレビ番組を観ていて「スタジオのお客さん、今日のゲストだれか知ってますか?」というときの、「客」ということばと「ゲスト」ということばのあいだには、だれもが認めるちがいがあります。客とゲストというよくある類語を、ここまで丹念に分けていて、だからこそどちらのことばにも固有の特別感があるんですね。お客さんはお客さんであることがうれしくて、ゲストはゲストであることがうれしくて、客とゲストのあいだにも緊張感があって、それをテレビのひとたちは共有したり交感したりしているんです。
ことばに緻密に託した感情が、ふとしたときに顔を出します。
さいごに
カタカナ語・外来語という強烈なカテゴリーに収納されてしまっていることばが、じぶんにとってどんなことばなのかを突き詰めていく作業が、「ことばの両利きになる」というテーマにつながっていきます。
最後に、せっかくなので文豪の例をふたつ見ておきましょう。どうしてそういう外来語を用いたのか、想像してみるのも刺激的な練習になるんじゃないかと思います。
「私が高等学校の寄宿舎にいたとき、よその部屋でしたが、一人美少年がいましてね、それが机に向かっている姿を誰が描いたのか、部屋の壁へ、電燈で写したシルウェットですね。その上を墨でなすって描いてあるのです。それがとてもヴィヴィッドでしてね、私はよくその部屋へ行ったものです」
梶井基次郎『Kの昇天』
「ちぇっ! また御託宣か。――僕はあなたの小説を読んだことはないが、リリシズムと、ウイットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなものを除き去ったら、跡になんにも残らぬような駄洒落小説をお書きになっているような気がするのです。僕はあなたに精神を感ぜずに世間を感ずる。芸術家の気品を感ぜずに、人間の胃腑を感ずる」
太宰治『ダス・ゲマイネ』
どちらも私の好きポイントを押さえていますが、どこがどうとか解説するのはまた今度。でも想像してみてください。時の試練に耐えた文豪がここぞと用いた「ヴィヴィッド」や「ポオズ」を味読してみてください。そのなかで外来語という分類の壁を超えて、もっとことばと仲良くなれるはずです。
もっともっとことばについて、校正を創作技術としてとらえた視点について語りたいことはありますが、今回の連載はここまで。最後まで読んでくださってありがとうございました。
また、たくさんのコメントも励みになりました。monokaki編集部の方々からもいっぱいことばやアイデアをいただけました。ほんとうにありがとうございます。
また明日もみなさんの創作に曙光が差し込みますように。
さようなら。
1. ↑ 新聞社などが集まって時代に合わせた用字用語の統一をはかる「新聞用語懇談会(用懇)」というのがあり、そこで議論されたものが各社のガイドラインに反映されたりします。毎日新聞社の校閲部が発信しているウェブ記事『新聞の“表記ハンドブック”をつくる現場とは』では、「ウィーク」にするか「ウイーク」にするか各社の判断がすれちがったことなどが語られていました。とはいえ、これが正解ということではまったくなく、一冊の書籍のなかで編集方針が決まることのほうが多いでしょう。たとえば、「ジャパンナレッジ」で参照できる『日本大百科全書(ニッポニカ)』での編集方針では、以下のように書かれています。
〈外国語カタカナ表記に関する一般原則〉
b.〔v〕の音は原則として「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」を使わず、「バ、ビ、ブ、ベ、ボ」と表記した。ただし、ドイツ語などの〔w〕は「ワ、ウィ、ウェ、ウォ」、ラテン語の〔v〕は「ウァ、ウィ、ウェ、ウォ」とした。
バージニア
ばーじにあ
Virginia
ウェーバー
うぇーばー
Max Weber
また、より実践的に利用したいかたは、(物書きさんのあいだではすでにおなじみの)ジャストシステム「ATOK」の追加機能「記者ハンドブック第13版 for ATOK」を利用するのがおすすめです。たとえばカタカナ語では、「パーティ」とすると「パーティ《表記揺れ》→パーティー」と(『記者ハンドブック』において)統一すべき表記のほうを提案してくれます。こういった地味で地道な表記統一ですが、おおかたの編集者は気づいてくれたり、気づかずとも「(方針が感じられる)きれいな原稿」と受け取ってくれます。校正者であれば、「パーティ(パーティー)」や「アメニティ(アメニティー)」のような細かい音引きひとつであっても、ほぼほぼ全員が表記の努力には気づいてくれるはずです。
2. ↑ なんの断りなく「外来語」というとき、古来より取り込んできた「漢字」などの外来語については含めないことがおおいです。そのニュアンスを示すときに、掘り下げたかたちで「洋語」とすることもあります。
3. ↑ 「喉元に突きつけられた凶器ともいうべき、黒船の大砲に無謀に立ち向かうことではなく、また大砲という物資を購入すれば、こと足れりというものでもなく、むしろ大砲を造り、それを用いている人間と、それらの人々によって成り立っている社会制度、即ち西洋の『文物制度』を学び、その長所を日本人に知らしめることが急務である。」(島根県立大学西周研究会『西周と日本の近代』)
*本記事は、2019年12月24に「monokaki」に掲載された記事の再録です。