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 梅雨があけ、夏が来た。
 この季節の訪れは、ほかのときより少しだけ、私を緊張させる。東京に居ながらにして、東京を強く思う。東京を思うことは生きて暮らしていくことを思うことと、もはやほぼ同義だ。

 14年前の夏の日、私は一度東京をあきらめかけた。ある朝起きると声がまったく出なくなっていたのだ。それ以外には何の不調もみあたらなかった。声、言葉だけが、暮らしからすっぽりと抜け落ちてしまった。
 当時私は24歳。昼は大学院に通い、放課後はモデルの仕事と文筆業、夜から朝にかけては学費と生活費を賄うためクラブハウスでアルバイトをして日々を送っていた。一日が24時間じゃ全然足りないくらいにせわしない毎日だったけれど、どれも自分が選びとった暮らしだったから、その数の多いことに喜びを感じていた。かつてないほどの充実感とともに、すべては順調に進んでいた。と、思っていた。
 こんなにも多くの音が溢れている世の中――東京で、ある日とつぜん、ひとり自分の声だけが消えてしまった。なぜ? その理由を深く追求していったら、生きてきた足取りそのものに欠陥を見つけてしまいそうで、怖かった。観念して、ありのままの状態で世間に出ていくことももちろん無理だった。仕事も人付き合いも中途半端に放棄して、田舎に逃げ帰るしかなかった。
 なにもすることがなくなってしまった虚無感、もしまた東京に戻れたとして、私の居場所は残っているのかという焦り……。現実を見つめるほどたまらない気持ちになった。自室に籠って起きて寝るだけの日々は無為に過ぎて行った。自分の息するちいさな音さえも、人の暮らしの中の異物のように聞こえていた。

 『昨夜のカレー、明日のパン』は、脚本家・木皿泉による初の小説作品だ。
 7年前、25歳で死んでしまった夫の一樹。残された嫁のテツコは、いまも一樹の父・ギフとひとつ屋根の下で暮らす。
 プロポーズを断られてもテツコに寄り添う恋人の岩井さん。一樹の幼なじみで、心を病み休職中のムムム。ギフが出会った、恋人に捨てられた過去を持つ山ガールの小川さん。童貞でなくなった夜、一樹の死を留守電のメッセージで知らされた従兄弟の虎尾……。それぞれに悲しみを持ちながら、しかし大げさに同情しあうでもなく、まして、悲しみの度合いに優劣をつけるでもなく、ひとりびとりの持ち物として生き死にを、ただ共にしてゆく姿が描かれていた。

 声を失い、田舎に逃げ帰って過ごしていたあのころ。
 家族は、最初こそ動揺したものの、そういう状態になった私を受け入れ、なにも聞かずとも生活をともにしてくれた。
 それでもやっぱり、これから先のことを考え始めるとたまらなかったが、日々はゆっくり前に進み、私はその中で次第に解放されていった。
 自室から出られるようになると、朝食前には祖母と畑の野菜を世話し、昼には西に移動してゆく日向を追って縁側で読書をし、夕には母と並んで台所に立った。晩には父や兄がする晩酌の席で、仕事の愚痴を聞いた。母が願うように、いっそこのまま田舎に暮らすのもいいのかも、と思いもした。でもそんなとき、胸を焦がすように蘇るのは東京の風景や、そこに戻り生活を再開する自分の姿だった。喧騒の中に響く、自分と仲間たちの声なのだった。田舎に広がる景色の中に、いつも東京を描いていた。
 そうして夏が過ぎ、紅葉の中に金木犀の香りが漂い始めたころ。声が戻った。再び発した第一声はどんな言葉だったか。それほどに呆気なく、声の欠けた日々は幕を閉じ、私はまた東京に戻ることができたのだった。

 自分には、この人間関係しかないとか、この場所しかないとか、この仕事しかないとかそう思い込んでしまったら、たとえ、ひどい目にあわされても、そこから逃げるという発想を持てない。呪いにかけられたようなものだな。逃げられないようにする呪文があるのなら、それを解き放つ呪文も、この世には同じ数だけあると思うんだけどねぇ


 ギフの言葉が、あの夏の日々を包み込んで響く。

 なぜ突然声がうばわれてしまったのか。いまの私には、ほんとうの理由がわかっている。けれどそれについては、あえて書かない。
 ただひとつたしかなのは、これからも生きて暮らしていくことに、あの日の喪失がしっかりと組み込まれているということだ。


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『昨夜のカレー、明日のパン』
著:木皿泉 河出書房新社(河出文庫)
悲しいのに、幸せな気持ちにもなれるのだ――。
7年前、25歳で死んだ一樹。遺された嫁のテツコと一緒に暮らし続ける一樹の父・ギフとの何気ない日常に鏤められたコトバが心をうつ連作長篇。
本屋大賞第二位、ドラマ化もされた人気夫婦脚本家によるあたたかい涙が溢れる感動作。書き下ろし短編収録!


*本記事は、2018年07月10日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。

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