わかりあえない人の気持ちがわかるような小説を書いてみたい|二宮敦人 インタビュー
エブリスタの前身であるモバゲータウンからWeb投稿で小説を書き始め、あるきっかけで出版に持ち込んだことで商業出版デビュー。初期にはホラー作品が多かったが、デビュー10周年を迎えて近年ではヒューマンドラマ作品を多く手掛けるようになった。
まさにWeb小説の申し子とも言えるこの作家は、フィクションだけではなくノンフィクション作品での評価も高い。Web小説を書き始めた理由から、小説との向き合いかたや取材方法などについて二宮敦人氏に聞いた。
生きることと死ぬことを病室のベッドで考えていた
――小説を書きはじめたきっかけがありましたらお聞かせください
二宮:もともと携帯電話というガジェットがすごく好きなんですよ。それで「モバゲータウン」というサービスがリリースされて数日後ぐらいに見つけてちょいちょいイジってました。
直接的なきっかけは就活でした。試験や面接の行き返りで電車に揺られているとむしゃくしゃするというか、そんなストレスを抱えながら携帯をいじっていると、人がたくさん死ぬ小説を書いてみたくなったんです。ちょうど「モバゲータウン」のクリエイター機能がリリースされたので、じゃ、触ってみようという感じで書き始めたのがきっかけです。
――今エブリスタに残っているものですと、『リカオン』という作品がありますが、最後死んでしまう悲しい話なのにスッキリ読めます。それまでの学生時代では創作活動はされていなかったのでしょうか?
二宮:ずっと絵を描くのが好きで、昔は漫画家になりたいと思っていましたね。小学生から高校までは漫画家になりたくて、その時、描いていたのはぜんぶギャグ漫画だったんですよ。「ジャンプ」の赤塚賞とかギャグ漫画の賞に応募していました。まじめなストーリーはあまり描いたことがなかったですね。
――ギャグとホラーは紙一重とは言いますよね
二宮:度を越えたホラー映画って笑えますもんね。
――高校や大学に入ってから創作はされていましたか?
二宮:大学の頃は競技ダンス部に入りまして、それが忙しかったんですよね。最初は暇な時間があれば、やろうと思ってたんですが全然余裕がなくて。たまに水彩画を描くぐらいでした。
ダンス部内でも闇があるんですよね、男女がいる部ではあるので、人間関係とか。そういう鬱憤もたまっていた気がします。大人になれない自分と部活動での鬱憤がモバゲーで作品を書く際の原動力になっていたと言えるかもしれません。
――いい話ですね。やっぱり、抱えていた闇が創作によって作品に昇華されるのはいいことですよね
二宮:自分で分析がしてみたかったんです。イライラしてくると、その延長線上で殴りたいとか殺したいとか考えるじゃないですか、殺したことが一回もないから殺すとはどういうことかまず考えないと、本当に殺したいかどうかわからないし判断できない。だから、実際に殺すとはどういうことなのかを文章にしていくと客観視できる。そういうことをしていくことで心が落ち着いていく、感情を正しく捉えられることがあります。
――『リカオン』から近年の『最後の医者』などにわたって、死に対してすごく深く考えているような印象を受けます
二宮:自分がなんで生きているのか、ということがずっとありましたね。生きることを考えるのは死ぬことを考えるのと表裏一体だと思うので。僕がなぜ生きていることに疑問を持ったかというと、小さい頃から身体が弱くて入院もよくしていたからなんです。健康保険があって豊かな日本だから生き延びることができた子どもなのかな、という意識が誰に言われたということもなくあるんです。薬の力を借りて生きている自分はなんの意味があるんだろうとか、その分代わりになにができるんだろうとか、でそういう思考になっていきました。
他の人が書いたものや哲学を読んでも、ちょっと違うかなと思うんですよね。いいことが書かれているんだけど、自分とはなにかが違う。なにが違うのかを確かめるには書き出すしかなかったという経緯です。個性というか性格によるものかもしれないですね。
ちゃんと人が死ぬのかにこだわったホラー小説
――モバゲーではじめて自分の書かれた小説が読まれた時にはどう思われましたか?
二宮:ビックリしたというのが正直な感想でした。おもしろい小説を書いたから見てくれという気持ちがあんまりなかった。ただ、それが意外とたくさんの人に読んでもらえて、中にはおもしろいと言ってくれる方もいた。自由帳に勝手に書いているような気持ちだったんです。
僕は小説家になろうと思ったことがなくて。大抵、小説家になる人は新人賞を受賞してデビューするじゃないですか、そこにはおもしろいものが書けたから読んでくれ、という気持ちがないと応募できないと思うんです。だけど、モバゲータウンのサービスには、自分のような後ろ向きな人の作品も読んでもらえる可能性があった。自分の作品が誰かの役に立つかもしれないということを初めて知って、その衝撃は大きかった。あの機能がなかったら今も僕は小説を書いていないと思います。
――その衝撃を受けてから次の作品を書く時に変化はありましたか?
二宮:あまりなかったですね。元々ネガティブ気質が強いので、人気が出てもたまたま表示が上の方だったから見てくれるだけだろうと、すぐに落ちていくと思ってました。自分の作品につねに自信がないんです。読者にウケるようなものを狙って書いたところで、どうせできるわけがない。だから自分のやりたいことをやろうという感じでした。結果的にいいように寄与しているネガティブ気質。ほんとうに最近ですね、自分の小説が世界に恩返しできているのかもって思えるようになったのは。
――思えるようになったきっかけはあるんですか?
二宮:この一年ほど慢性的なスランプ状態になっていて、TO文庫の担当編集者の柴田さんに原稿が通らないんですよね。だけど直し方がわからないというのが続いていて、その中で「元々なにがしたくて小説書いてるんだっけ?」とか「自分の持ってる小説の武器はなんだろう?」とか自分を深掘るようなことをしていったんですね。やがて自分の中にはこれがある、これが誰かの役に立っている、だから今までやってこれたのだ、という風に繋がっていった。この仕事に意義があるのかもしれないとか、自分が書いた小説で救われている人がいるのかもしれないと肌感覚を持って納得できるようになりました。
――初期にはホラー小説が多かったと思いますが、ホラー小説を書く際に気をつけていたことはありますか?
二宮:自分がホラーを書くときにこだわっていることがあって、それはちゃんと死ぬのかということですね。たとえば、毒で殺すなら、致死量をちゃんと飲んでいるかが気になる。飲む相手の体格や年齢によっても違うし、人間の体ってよくできていて毒を飲むと反射的に吐いちゃうんですよね。吐くことを計算してちょっと多めに飲ませるとか、吐けない状況においてから飲ませるとかしないと死なないんです。そういう背景がちゃんと検討されているかどうか。
――初期の作品で人がちゃんと死ぬのは、人をちゃんと殺すことを考え抜いていたからこそなんですね
二宮:ナイフで首を切っても人は意外に死なないんですよね、切られたところで気管が切れるだけなので、痛いけど命には別状ない。でも、頸動脈を切られたら死んじゃうんです。一般的に知られている知識ではなく、解剖学を知らないとわからない。しかし、殺人者が頸動脈をいきなり狙ってくるとプロ感が出てしまうんですよね。
人を殺すのって大変なんですよ。腹にナイフを刺しても意外と内臓にいかない。距離もあるし、人体は瞬間的に反射でよけるんですよね。内臓を傷つけようとすると思ったよりも技術がいるんです。
殺し方をちゃんと調べようとしたら、凶悪犯罪者の犯行よりも軍隊のマニュアルの方が正しい知識が得られて参考になる。アメリカ軍のマニュアルとかは素人の兵士をひとりのモンスター(優秀な兵士)に育てるためのノウハウがある。そういうのを読んでいると、小説の中であっても人を殺すのは意外と大変だなーと思います。
相手に憑依できるぐらいになるまで取材で話を聞く
――携帯電話が好きとのことですが、初期作品にはメールが出てきて、「郵便配達人」シリーズでは手紙が出てきましたが、コミュニケーションツールが好きだったりするんでしょうか?
二宮:自分の癖だと思うんですけど、一人称による独白が好きなんです。だからメールや手紙を使いたがる傾向はあると思います。直接会って口で話すのとちょっと違うんですよ、独白って。キャッチボールもしないし、ちょっと自省的でありつつ一方的に喋る文章が好きというのに尽きますね。
――三人称で話が進んでいくが、中では一人称による独白がある作品もあります。キャラクターの内面を描くために一番それが書きやすいということもありますか?
二宮:そういう風に書いた方が自分の頭の中にあるものをアウトプットしやすいという思考パターンをもっているんだと思います。癖であり武器であり、弱みでもあるという感じですかね。使いこなせたらちょっとおもしろいと思うんですけどね。
――取材される際に気をつけられていること、意識されていることはありますか?
二宮:相手の方とおしゃべりしながら、自分が聞きたかったことは絶対聞くっていう風にはしています。割りと当たり前だとは思うんですけど、納得するまで聞くというのが大事です。
自分が納得できないと作品には使えないので。たとえば『郵便配達人』であれば、お話を聞いて「自分が郵便配達人だったころが思い出せるな」という感覚になるまで。もちろん僕は郵便配達をしたことはないんですけど、「思い出せる」という感覚になるぐらいまで聞けたら成功だと思います。
――お話を聞いている方に転移するというか、憑依する感じに近いんでしょうか?
二宮:そうですね。すべてに憑依する必要はないんですけど、少なくとも主題に関しては、その人の記憶が自分と区別がつかないぐらいまで、実感としてわかるくらいまで持っていかないと文章として書けない気がしますね。我が事として入れて、咀嚼してからじゃないといざ原稿に向かって書く時に出てこないと思うんです。
――そこまでお話聞かれると内面まで入ってくる感じになりますね。そうなると気分を害することもありえそうですが
二宮:あまり怒られたことはないですが、全然かみ合わないことはあります。お互いに期待しているものがあまりにもズレていたりすることはある。向こうも何喋っていいかわからないという顔をしていたり、こっちも何を教えて貰いたいのか、うまく伝えられないとか。
性質上秘密主義であるべきものもあって、どうしても、こちらも踏み込めなくて表面をさらったようなインタビューになってしまうという失敗例もありますね。外的なイメージをすごく大事にして商売されている方も、全てを明かしてはもらいにくいですよね。商売に関わってくるとこちらも迷惑をかけられないので。
――そういう場合は二宮さんの中でイメージを高めてキャラクターにするしかないんですか?
二宮:その場合は書けないですね、捨てるか諦めるしかない。代わりの取材対象を見つけるかプロットを変えるしかない。その辺は現実というか自分が取材できた材料に合わせて物語や本の内容を調整していくしかないと思いますね。逆にいうと話してくれる人が見つかるまで探すみたいなところもあります。
悩んでる人に違う価値観を提示したい
――初期のアルファポリスで書かれていたホラー作品から、現在のTO文庫で書かれているヒューマンドラマ系の作品に移行したきっかけがあったのでしょうか?
二宮:ひとつは「最後の医者」シリーズに関しては、編集者の柴田さんが打ち合わせのときに、「ドラマにできるやつやりましょうよ! 医者ものとかですよ!」と言われたので、提案を受け入れたというのがあります。ただ提案を飲んだわけではなくて、僕にとってホラー小説というのは死に方とか、死について観察したり分析したりする行為の一貫だったので、医者が生死について考えるのも分析するのもその延長だと捉えました。
ホラーと医者の話を書いている感覚はあまり変わらない。なんなら医者の話はホラーに近いと思ってます。医者が直面する状況ってグロテスクだったり、ホラーだったりすると思うんです。
――二宮さん自身は明確に「自分はこれが書きたい!」というものはありますか?
二宮:自分が書きたいものははっきりあるような気がします。さっき憑依していく感覚で取材すると申したんですけど、日常的に憑依しているタイプだと思うんです。たとえば、歴史の教科書とか読んでいるとどんどん出てくる人に感情移入しちゃうんです。魔女狩りの時代に生きてたらこんな感じだった、とかそういうことをみんなに言いたい。自分が憑依して視たものを伝えたい。場合によっては価値観が全然変わることもあって。
――そういうことを作品の中に入れていく?
二宮:そうですね。たとえば、もし鏡がない時代に生まれていたら、ルッキズムの問題も捉え方も違っていたはずです。鏡はヨーロッパでは14世紀ぐらいに大衆の手に渡り始めたわけだから、それより前の人たちは自分の顔をきちんと知る術があまりなかった。水面に映ったボヤっとしたものを見るしかなかった。僕たちが美醜に悩むというのは、今たまたま鏡があるという環境の要因がすごく強いんです。
自分の美しさは本質な問題ではない、鏡を見なかった人たちがかつていたという視点を持つことができれば、悩みについても少し違った捉え方ができるのではないかと。その結果、悩みが少し軽くなるのであれば、そういうことを言いふらすのに意義があると思います。それが一番やりたいことですかね。これってかなり応用がきくんですよ。ホラーでもノンフィクションでも似たようなことができるんです。
客観性と両論併記することによる視線
――ネガティブなものを扱いながらも、それがマイナスにはならずにいる独特のバランスが二宮作品にあるように思います
二宮::両論併記はいつも考えてます。必ずしも併記しなくてもいいのですが、一度は検討するということです。父が法曹で、その影響もあると思うんです。裁判を傍聴しにいったことがありますが、片方の話を聞くとめちゃくちゃ正論を言っていて、間違いないな、こっちが正しいと思う。でももう片方の反論を聞くと、そちらもめちゃくちゃ正論なんです。あれどっちが悪いんだ、とわからなくなる。
――正論同士の戦いになってしまう
二宮:どんなにこっちが正論をぶつけても、絶対に向こうは向こうなりの正論をぶつけてくるという確信が僕には常にあります。完全な善とか悪とかはなくて、視点の分だけ作れてしまう。裁判だとそれがリアルタイムで繰り広げられているのを目の当たりにすることになるのでおもしろいです。
――客観性を作るために裁判を傍聴するのを「monokaki」でもオススメしてみようと思います。両論併記というか、左右どちらにも触れるというのは客観性にも繋がってますよね
二宮:世界史がすごく好きなこともあるかもしれない。いろんな視点がありますからね。そもそも歴史というのがある特定の国の都合で作られたものでしかない。いろんな国の歴史を学んで、その真ん中で見ていくしかないんです。
たとえば先住民と開拓時代のアメリカ人。どっちかがいい悪いという単純な話ではないだろうし、だからこそ、実際に起きたことの悲劇が際立つと思う。
僕は白黒つけたくないほうなんでしょうね。白黒つけるのもひとつの議論の決着方法だと思うし、それが悪いとは思わないけど、僕はあんまりやりたくないってことですかね。
――白と黒の間にあるグラデーションの中で動けるのが一番いいという感じでしょうか?
二宮:そうです。ぎりぎりのところまで、グラデーションを維持しておきたい。ただ、あまりにもグラデーションだけを描いてしまうと、今度は作品でなにが言いたいのかというのがわからなくなってしまうので、塩梅が難しいですよ。やっぱり読者がメインとして共感できる人物がちゃんといないと話も成立しない。みんないろんな意見がありますよ、だけだと無味乾燥な本になってしまう。
わかりあえない人の気持ちがわかるような小説を書きたい
――ご自身の作風に影響を与えたと思われる作家や、他ジャンルの作品がありましたら教えてください
二宮:藤子・F・不二雄先生ですね。『ドラえもん』全巻持ってるんですけど、「大長編ドラえもん」では、大冒険したあとの大団円シーンのページが2ページぐらいだったりするんですよ。これはかなり驚異的だと思っています。藤子・F・不二雄先生の、要点をちゃんと掴んで端折っているように見えない技術を身につけたいな、自分も取り入れたいなと、年を取るごとに思います。
読んでいる時には短さを感じさせないんですよね。最後の2ページで大団円を十分感じさせてくれる。エンタメとして必要な要素をちゃんと抑えていて、読者が読みたい部分を削ってないから無駄がない。影響を受けていると自覚するほどなのは藤子・F・不二雄先生ぐらいでしょうか。いつも盗みたいなと思ってます。
――小説はそんなに読まれてなかったんでしょうか?
二宮:小説だと星新一先生。『ドラえもん』も星新一先生も母が読んでいたのを、読むようになって。星新一作品はほぼ全部読んだと思います。あれもすごくテンポがよくて、無駄を省いていてちゃんと満足感もある。
――どちらとも先ほどおっしゃっていた両論併記に通じている作家という感じがします
二宮:もしかしたら似ているのかもしれません。読んでいてストレスが少ないのもあるかもしれません。ちゃんと読者に寄り添っているのに、寄り添っている風に見せないものが好きですね。それを高い次元で完成させているのが藤子・F・不二雄先生や星新一先生ですよね。
――これから書きたいと思っている作品、テーマにはどんなものがありますか
二宮:現代とは異なる時代の、当時の人々の感覚が得られるエンタメ小説を構想しています。あとは、自分とは感覚が異なる人を取材してみたいですね。おばけが見える人とか。
僕は見えないんですが、おばけが見える人って一定の率でいて、少なくても僕は嘘をついているとは思えない。その人と僕とはわかりあえないわけですけど、わかりあえないからこそ、その人たちの気持ちがわかるような小説を書いてみたいです。
――人間に興味があるんですね
二宮:一見わからない人を、やっぱり人間だったと納得したいというのがある。
――二宮さん憑依体質だから、おばけが見えてる人に近い感じはします
二宮:それも捨てきれないと思ってるんですよ。あれだけ人がいるんだから、おばけが混じってないとは言い切れない。日々、無自覚に見ている可能性がありますよね。
――自分が見てるものが他者にも見えているとは限らないですからね
二宮:そういったクオリアの話に踏み込みすぎると哲学に近くなって、エンタメにできなくなっちゃうのが怖いんです。その辺をうまくエンタメに落とし込めたらと思う。軽々と読み始められるんだけど、読み終わるとすごく深い視点が得られている、そういう読後感が理想というか目指したいですね。
――最後に、プロをめざす書き手に向けてのメッセージがあればお願いします
二宮:つくづく思うんですけど小説を書くのはすごく大変なことだと思うんです。アマプロ関係なく、一個書ききるだけでもいろいろ考えるし、疲れる。それに挑む人を全員リスペクトしています。
みんながんばってほしいし、どうかお身体に気をつけてほしい。
すごいことをやっているという自覚を持っていいので、くれぐれも無理はしないで。うまく言えないですけど、僕も日々悩みながら書いているので、他の誰かもそれをやっていると思うだけで勇気づけられます。ありがとうございます、一緒に頑張りましょうとお伝えしたいです。
(インタビュー&構成:monokaki編集部、写真:鈴木智哉)
『最後の医者は雨上がりの空に君を願う(上)』(TO文庫)
「流されるままに生きればいい」。小さな診療所を始めた医者・桐子は患者に余命を受け入れる道もあると言い切る。一方、かつての同僚・福原は大病院で閑職に追いやられてもなお、患者の「延命」を諦めない。別々の道を歩む二人が、ある難病の恋人同士を前に再会を果たす時、それぞれに壮絶な過去が呼び覚まされるのだった。残された日々を懸命に生きる患者と医者の葛藤と闘いを描き、大反響を呼んだ医療ドラマ。衝撃の新章へ!【文庫書き下ろし】
『最後の医者は雨上がりの空に君を願う(下)』(TO文庫)
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