なぜこんな物語を書こうとしているんだろう?|飛浩隆 インタビュー
「飛浩隆16年ぶりの新作長編」。このキャッチを聞いただけで舌なめずりしそうになる本好きは、きっと少なくないだろう。「小説にしかできない表現」について考えるとき、いつも真っ先に飛氏の作品が思い浮かぶ。
2002年に〈廃園の天使〉シリーズ1巻にあたる『グラン・ヴァカンス』を上梓してから16年、今年発売された『零號琴』は6冊目の著作となる。けして多作ではないが、すべての作品から、その世界の歴史のどこを切り取っても「物語」になりそうという、世界観の広がり・懐の深さを感じる作家だ。
その比類なき密度はどうやって生まれているのか? 島根県松江市在住の氏に、フルタイムの本業の間を縫ってメールインタビューにお答えいただいた。同県内で撮影された写真もまじえてお届けする。
作品を書いているあいだはつねに「問題を解いている」状態
――平日はお仕事をされながらの執筆活動ですが、どういったルーティンで書かれているのでしょうか
飛:いまの職場は深夜までは拘束されないので、帰宅して夕食をとっても、就寝まで執筆の時間がとれます。切り替えの儀式みたいなものもなく、なんとなく執筆に移行する感じ。時間はせいぜい一日2時間くらい。とはいえ、その半分以上はツイッターをやっているかも。さいきんは深夜零時あたりで限界です。セーブしているわけではなくて、ほんとうにそれで精一杯。食後に15分くらい仮眠を取ることもありますが、これは執筆しながら眠ってしまうことを防ぐためで、全体の時間を延ばすまではいきませんね。年はとりたくないものです。
――一日2時間の執筆時間を維持する秘訣はなにかありますか?
飛:フルタイムの正業は容赦なく心身のリソースを奪うから、問題は、執筆に振り向ける力をどれだけ残して帰宅できるか、ですね。これも秘訣はありません。しかし作品を書いているあいだはつねに頭の一部が「問題を解いている」状態にあるので、それを大事にしてやることですかね。職場のデスクでコーヒーを飲みながら小説の続きを思ったり(しっかりと考えるのではなくぼんやり思いを馳せる感じ)、昼休みにメモを取ってみたり。
――東京ではなく松江で暮らしていることに、自作への影響はあると思われますか
飛:山陰は、その名のとおり日照のとぼしい土地ですが、松江市にはどこかしら「明るさ」があります。背の高い建物が少なく、太陽の位置が低い時間帯でも日光の直射のとどく範囲が広いこと。そして町の中にみずうみというひらけた場所があり、そこが(まるでレフ板のように)光をまわしてくれること。
ところで山陰には「雲魂(うんこん)」というローカルSFイベントがあります。毎年一回、県外からのお客もあわせて数十名が旅館に集まり、料理を食べたりお酒を飲んだり馬鹿ばなしに興じる、ただそれだけの集まりです。『グラン・ヴァカンス』に着手してから脱稿するまでの9年余りは、本業の忙しさもあいまっていつ完成するかまったくめどの立たない、つらい年月でした。当時はまだ一冊も著作がなかったし。
飛:しかし「雲魂」にゆけば、一年ぶりに遭う知人が、ついきのう別れたばかりみたいな顔で「まだ書いてんの~」「早く出してよ~」と気軽に声を掛けてくれる。それに応えて「いやーまだまだかかるんだ」と、涼しい顔で答える。つよくプレッシャーを掛けられることもなく、十年ちかく何も発表していなくても忘れないでいてくれて、ただあいさつだけを寄越してくれる、敵対も羨望もない場。当時はよくわかっていませんでしたが、こんな場所があることは奇跡だし、そこに年一回アクセスできたからこそ、その期間、書き続けられたのでしょう。
ちなみに写真は、ことし(2018年)11月にひらかれた第三十回「雲魂」でふるまわれた、『自生の夢』SF大賞受賞を祝うケーキです。こんなの、うれしいとしかいいようがないですよね。
作品固有のトーンや流れをつくる
――最新刊『零號琴』は600p超の大長編です。実作時間のうち、執筆時間と推敲される時間の割合はどのくらいでしょうか
飛:『零號琴』は連載が2年弱、その後の改稿に7年かかりましたので、それくらいの比率かなあ(笑)。いや、連載中もがんばって推敲していたわけですから、さらに推敲の割合が高いことになりますね。そもそも先のことを詳しく決めてから書きはじめるタイプではなく、絵でいうと、小さな線を数多く重ねて対象物をデッサンするように書いている。
――あの端正な文体も、最初は当たりをとるようにして書き始められるんですね
飛:細切れの時間を継ぎはぎして執筆時間をひねり出しているから、どうしても余分な文章が増えてしまいます(小説に入っていくための助走であったり、設定を思い出しながら書いてしまったり)。あとから見直すと、正確でない描写や不要な文章がたくさんある。これに消しゴムを掛けたり、より正確な描写に近づけたり、せりふのリズムを整えたり。そんなことばかりやっているので時間がかかるのです。
――長編を書く際と中短編を書く際で、意識や技法に違いはありますか
飛:それぞれの作品にどう取り組むかは、その作品で何をしようとしているかで変わります。
『ラギッド・ガール』に入っている中短編を取り上げてみてみましょう。「夏の硝視体」は長編小説『グラン・ヴァカンス』のトレーラーとして書いたので、長編での事件――事態の激変が起こる前の平坦な日常のスケッチと舞台背景の紹介に徹しています。「クローゼット」では日本在住のインド人女性、ガウリ・ミタリの亡き恋人をめぐる恐怖の襲来をえがきますが、作者(私)は、むしろガウリのパーソナリティの根底にあるものや、その欲望の核心を執拗に追及し、見つけてきたものを全編の文章に編み込んでいくことに没頭しました。「魔述師」は《廃園の天使》シリーズの根幹をなす事件がいかにして起こったかを明らかにする、ドキュメンタリー的性格が要求されますが、それを登場人物たちの切実な動機や屈折した感情のやりとりと一体化し胸にせまる喪失として表出しようとしました。それぞれ、ふるう技巧も意識もまったく異なっています。
――「何をしようとしているか」が先にあって、長編であるがゆえの準備などはされない?
飛:『グラン・ヴァカンス』と『零號琴』は、もともと短いものを書こうと思って着手したのです。前者は四百字詰め原稿用紙で20枚くらいの掌編、後者はせいぜい200枚の中編。書きはじめたときには、そのお話のポテンシャルに気がついてなかったということでしょう。ちょっとプロ意識に欠けていますね。
長編にかぎっていえば、数百枚から一千枚以上の長丁場において「一貫させるべきもの」を、意識して打ち立てておく必要があります。解明されるべき謎でも、愛の成就までの行程でも、印象的な色や音響でも、なんでもいいのですが、それを読者が意識できるようにしておきます。読者は(一か月以上の)中断をはさんで再開する場合もあるわけですが、戻ってきたときにまたすっと包まれるように作品固有のトーンや「流れ」に乗っていけるようにしてあげることですね。
女性キャラの率直な表明が魅力的な最新作
――『零號琴』に出てくる美褥の風景は、正にそういうものだったと思います。作品の着想はどこから得られているのでしょうか? 世界観なのか、ワンシーンなのか、あるいはキャラクター先行なのか
飛:着想は二段階に分かれています。もともとは「キャラクター中心で、気軽にたのしめるエンターテインメント連作を書こう」というもの。このときに世界の設定――巨大できてれつな楽器があちこちの星にある世界――を決め、それを修理して回る専門家とその相棒を主人公にしようと考えていました。
着想の第二弾は、SF専門誌から読み切りの依頼があったことで、「それではあのシリーズのパイロット版を書こうか」と決めて、そこから作品世界を――銀河を横切る広大な領域〈轍〉、『零號琴』の舞台となる惑星〈美縟〉のなぞ、主人公が属する組織――そういったものを少しずつ(書き進めつつ)構築していきました。今回書籍化に当たって少なからぬ改稿をしたのですが、そこでまた当初の設定をかなり複雑化させ、拡充もしました。そうした構想の核心にあるのは「惑星〈美縟〉では500年前に歴史が断絶している。そしてその断絶には異星人が遺した巨大楽器が大きな役割を果たしていた。」というものであり、すべての設定はそこから導き出しています。
――書籍化された『零號琴』を拝読し、雑誌掲載時に比べて「フリギア」の扱い、重みづけが大きく変わった点に驚き、またわくわくしました。(こういった表現を用いて良ければ)より「ガールパワー」が前景化したような印象を受けたのですが
飛:書籍版『零號琴』は、いくつもの意味で「雑誌掲載版の『二次創作』」です。
雑誌版では、クライマックスをいろどる〈假劇〉が開幕してはじめて旋妓婀たちが登場しました(発音は「プリキュア」を連想させるし、女性キャラなので、ガーリーであることは認めます)。しかしそれはやはり唐突なので、作品の序盤から登場させることにしたのですが、結果的に旋妓婀たちの出番が大きく増えてしまって、主役が霞みかねないことになってしまいましたね。やや計算違いでした。
ただ、同時にここでは「『スーパー戦隊 with 巨大ロボ』というフォーマットの女体化」という別ベクトルの趣向も起動しています。ガールパワーの印象を強めているのは、むしろ本作に登場する規格外の女性たち(ワンダ・フェアフーフェンであったり、咩鷺であったり、ヌウラ・ヌウラであったり、鎌倉ユリコであったり)の大暴れのためではないでしょうか。
――個性的な女性キャラたちが幼少期に見た「フリギア」の思い出で連帯する点自体が、「プリキュア」の二次創作とも読み解けます
飛:女性といえばあの「かがみのまじょ」も「女性」でしたね。私の作品では、女性のほうがのびのびと欲望や狂気をふりまきます。彼女らの率直な「表明」を書きたくて――もっといえば彼女たちにインタビューを行うようにして小説を書いているといってもいいかもしれません。
「最後の一文」を手探りで見つけ出す
——Twitterで書かれていた「創作踊り説」を拝読しました。踊りでいう「最初のポーズ」と「最後のポーズ」、つまり物語をどこから始めてどこで終わらせるのかは、どのように決められますか
飛:「創作踊り説」を思いついたきっかけは、「次の文章になにを書くべきか完全に分かっているはずなのに、金縛りにあったように筆が止まってしまう」という現象を多くの(プロの)書き手が体験しているのに気づいたことです。むずかしい技巧が要求されるわけでもない、あとから読み返せばなんで詰まったのかも分からないくらい、どうってことない箇所でこれが起こる。なんどか直してうちに(あるいはほっておくと)、ふっと解決するんですけどね。
――アマチュアの書き手でも経験がある方はいるかもしれません。なぜ「ふっと解決」するのでしょう
飛:ここから先は比喩、アナロジーとご了解いただいたうえで聞いてほしいのですが、これって野球のボールがうまく投げられないとき、コーチから「こっちの肩を少し下げてみ」といわれて半信半疑でやってみたら、あらびっくり、遠くまで正確に無理なく投げられた、みたいなことではないかと思っているんですね。
文章というのはダンスのような「身体」の動きに似ているのではないか。ひとつの文章(ボーズ)と次の文章(ポーズ)は、独立には存在できない。そのあいだを(目には見えないけれど)身体の動きがつないでいる。文章が止まるときは、どちらかのポーズが不自然で、その間を埋める動きを作れない状態なのではないか。
さて、ようやくご質問に返れますね。「創作踊り説」で言っているのは、このようなミクロな部分での接続や運動のことなのですが、「物語」の全体は文章のつみかさねでできているわけですから、うん、たしかに、最初のポーズ(第1文)とさいごのポーズ(最終文)はあるとはいえます。
私は「最初の文をするっと読み終えたときは、すでにお話の中に足を踏み入れている」という感じになるよう作りたい方ですね。ばっちり決めたポーズではなく、なにげない立ち姿から自然に形を変え、そのときにはもう(鍛練されたダンサーならではの)息をのむような身体の美が立ち上がっているような、ね。
――後続の文へとスムーズに繋がる第1文、一連の動きをぴたりとおさめる最終文を書くというイメージでしょうか
飛:「最後の一文」は、これはもう手探りで見つけ出すとしかいいようがないです。物語の帰着点はだいたいの見当をつけて書き始めるのですが、「最後の一文」はそうはいかなくて、むしろそこにどんな文章を置くか、それを考えつづけるのが「小説を書く」ということなのかもしれない。
『零號琴』の最後のワンダの行動とそこに重ねたイメージ、あるいは「自生の夢」のラストで間宮潤堂の手の中に見出されたもの、すべては「それまでに書いてきたことぜんぶ」の帰結です。小説を構成する何千個何万個という文章のぜんぶを受けとめられる、度量の大きさとキレのよさを併せ持ったポーズ。そんな文が見つかると、それはもう小説家冥利に尽きます。
「架空の技術」を古びさせない方法
――読者の中にはSF作家をめざしている方も多いと思います。執筆時に、テクノロジーの扱いや作中の位置づけに悩まれることはありますか
飛:『グラン・ヴァカンス』は、執筆していた時代においては「サイバーパンク」と呼ばれるカテゴリに属するものでした。と同時に典型的な「サイバーパンク」的意匠――テカリのある黒いスーツやブーツ、鏡面ゴーグル、耳や首筋に這う電線――からはもっとも遠いヴィジュアルを与えてもいます。当時の一般的なファッションと対極的なものをまとわせてやろう、という反抗心でした。
もともとじぶんは、サイエンステクノロジーについて、知識も、勘所をつかむセンスが足りないし、そのうえ妙な反抗心を抱えてもいる。作中の仮想リゾートを支える基盤技術が、現実のインターネットを支えるものとはまったく異なった、奇妙なものになっているのはそのためです。
この架空の技術は、現実のエッジィなテクノロジーから敷延したものではなく、むしろ自身の気質や欲望のあり方と向かい合うようにして編み出しています。あるいは登場人物たちのひめた(あるいはあからさまな)欲望とことばを交わしながら。我田引水を承知でいえば、そうした方法で作り上げたアイディアやガジェットであれば、むしろより射程が遠く、寿命も長いものになるのではないかと期待しています。
――〈廃園の天使〉シリーズ最新作、『空の園丁』も楽しみです。進捗はいかがでしょうか?
飛:『空の園丁(仮)』は昭和五十年代の日本の地方都市――をイメージした区界を舞台に「高校生たち」の一年をえがく構想です。「眼鏡っ子女子高生の超能力バトル」であり「AIでも情報的似姿でもない者が登場する」ことになっています。まどろむように停滞した地方都市ですが、何十年か前に起こった〈天使空襲〉の残骸――巨大な石化した天使たちがあちこち巨像のように半ば埋もれている、そんな情景がごく当たり前のものとなっていて、高校の図書室には(『グラン・ヴァカンス』で大きな役割を果たした)「クレマンの年代記」の本が置いてあるのです。この物語の冒頭部は「SFマガジン」2005年4月号にすでに掲載しています。そして200枚くらいは書いてあるはず。
これから少しずつ準備をして、2019年中には「SFマガジン」の連載開始にこぎ着けたい、そう考えています。『零號琴』のような上滑り超大作ではなく、しっとりとした情緒やひんやりした恐怖が交錯しつつ緊張を高めていくような、そしてもちろん大掛かりな見せ場がいくつもあるような、そんな作品にしたいですね。
じぶんの小説を舐めず、徹底的に問う
――物書き志望の書き手に、「これだけはやっておいた方がいい」と思うことがあれば教えてください
飛:作家の流儀はみなそれぞれで、じぶんの書き方はメソッドにできないし、だいいち超遅筆なので、私のことなんか見習わない方がぜったいにいいと思うのですが(笑)……なにかひとつ、ということであれば、徹底的に「問う」ことです。
たとえばいまじぶんが書いている登場人物について問う。自問してもいいし、その当人でも、ほかの登場人物にでもいい。おまえはどういう人物なのか、いま着ているその服はなぜその服なのか、さっきおまえがつぶやいた独白はなんのメタファーなのか、さっきおまえが隣人に行った行動の真意は何か、おまえが身のうちに隠している真の欲望はいったい何なのか。
――無意識で書いてしまわず、一要素ずつ振り返るんですね
飛:そのときおそらく私は「批評家」になって、他人のテクストを深読みしようとしているのです。深読みは――見当はずれにさえならなければ――そのテクストの内実をより豊かにします。味わいが複雑になり、描写の階調が多彩になり、そして登場人物は、作者が外から与えたのではない、内発的な言動や固有の性格を見せてくれるようになります。
もちろんこうした問いは登場人物にかぎりません。いわゆる「世界観」(ふだんは使わないようにしていることばです)に対しても同じようにできる。こまかな平仄合わせや考証チェックではなく、もっと本質的な――なぜじぶんはこんな世界を舞台にした物語を書こうとしているんだろう? ――のような。
――かなり根源的な問いですね
飛:こうした問いを原稿につきつけてゆくうち、ある時、ふと物語の全容が――つまりこのお話はなにをいいたがっているのかが、もっというと「どういう生きものなのか」が――くっきりと浮かび上がる。いったんそれが見えてしまえば、あまりにも自然なので、さいしょのさいしょからそういうお話を書こうとしていたとしか思えないものになるでしょう。
べつのいい方をすると「じぶんの小説を舐めるな」「そこには想像を超える可能性が詰まっている」ということになるでしょうか。私の作品に「その世界の歴史のどこを切り取っても『物語』になりそうという、世界観の広がり・懐の深さを感じ」られるとしたら、こういう問いに辛抱づよく答えをみつけ、それを積み重ねているからだと思います。
(インタビュー・構成:有田真代、写真:櫻木みわ)
『零號琴』
はるかな未来、特種楽器技芸士のセルジゥ・トロムボノクと相棒シェリュバンは、大富豪のパウル・フェアフーフェンの誘いで惑星〈美縟〉に赴く。そこでは首都〈磐記〉全体に配置された古の巨大楽器〈美玉鐘〉の五百年越しの竣工を記念し、全住民参加の假面劇が演じられようとしていた。やがて来たる上演の夜、秘曲〈零號琴〉が暴露する美縟の真実とは?
『グラン・ヴァカンス』以来、16年ぶりの第2長篇。
『グラン・ヴァカンス』
仮想リゾート〈数値海岸〉の一区画〈夏の区界〉。南欧の港町を模したそこでは、ゲストである人間の訪問が途絶えてから1000年、取り残されたAIたちが永遠に続く夏を過ごしていた。だが、それは突如として終焉のときを迎える。謎の存在〈蜘蛛〉の大群が、街のすべてを無化しはじめたのだ。わずかに生き残ったAIたちの、絶望にみちた一夜の攻防戦が幕を開ける――。
仮想と現実の闘争を描く〈廃園の天使〉シリーズ第1作。
*本記事は、2018年12月06日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。