シナリオを小説にリライトするときに気をつけること|monokaki編集部
「いつでも有効な万能の回答」はない、けれど……
こんにちは。新潮社の文芸誌「yom yom」の編集長、西村です。昨年のコンテストに続いて「一問一答」を担当させていただくことになりました。
小説の書き方に“正解”はないような気がします。同じ作家さんでも、作品Aと作品Bはまったく違うきっかけで書き始め、違う書き方を試してみるのはよくあることです。そこに伴走する編集者も、作品Aについては「もっとプロットを練りませんか?」と申し上げ、作品Bについては「プロットなんか無視しましょう」と申し上げることもあるでしょう。
作品のジャンルによって、求められる要素も、書き手の個性も、届けたい読者層もいろいろなので、「いつでも有効な万能の回答」というのは、ちょっと提出しにくいのです。
こうした中で私が「一問一答」を担当させていただく意味があるとすれば、それは皆さんそれぞれに違うであろう迷っているポイント、悩んでいる問題に対して、「質問者の状況はきっとこういうことなんじゃないかしら」と一生懸命に想像しながらお答えすることだろうと感じます。どうぞ宜しくお願い致します。
「小説に動きがない」と言われる理由
【質問】
長年シナリオを書いてきました。これまでの作品を小説にしようと考えています。
文体をシナリオから小説に変換する上で、大事な点を教えて下さい。
まずは、このご質問からお答えしたいと思います。「小説とは何か」という問題を考えるうえで大切なさまざまな要素が、このご質問の中に含まれていると感じるからです。
新潮社の小説講座「新潮講座」にも、シナリオも勉強している受講生が結構な割合でいらっしゃいます。そうした方からお預かりした小説作品を読んでいると、かなりしばしば気になってくる典型的な問題点があるのです。それは、端的に言えば「小説に動きがない」ということ。
……と申しますと、もしかすると質問者さんは「そんなことないのでは?」と思われるかもしれません。(作品を読ませていただかずに申し上げるご無礼をお許しください。一般論として、という話です。)
たしかに、シナリオを発想のベースにしている方の小説は、場面転換もスピーディーですし、登場人物たちもよく喋り、よく行動することが多いです。
ストーリーも起伏に富んでいて、たとえば「盛り上がるポイントはここなのだな」ということもよくわかるのです。
でも、読み終えてみるとなぜか平板な印象が否めないことが多い。
なぜなのだろう? と、考えてみたことがありました。
そこでとりあえず出てきた答えは、「心理描写の大切さ」です。
映画や舞台は、役者さんが表情や語調、仕草でその人物の内面の繊細な動きを現してくれます。あるいは、照明・音楽・音響や、映画ならばカメラワークの寄りとか引きとかを使って、「その場面に立っている人々の心象」を表現することが可能です。
ところが、小説にはそうした装置はありません。言葉で表現するしかないのです。書き手の頭の中で情景がどれほど活き活きと「見えて」いても、それが文章で伝わってこないといけないわけです。
では、それをどう表現すればよいのか。地の文やモノローグで説明すればよいのでしょうか。そういう訳でもないと思うのです。(よく、ちょっとアレな編集者が作家さんに「もっと伝わるように“説明”してください」ってリクエストするのですけど、この“説明”っていう説明が最悪でして……。偉そうですねー、私は。でもこれで作家さんが迷路に入ってしまうことがよくあるんです。理由は後述します。)
風景の記述だって「心理描写」になり得る
小説にあってシナリオにない要素として、おそらく「視点人物」の問題が一番大きく存在します。映画や舞台は基本的に、観客は作品の外部にいます。観客は外から、作品の世界を眺めているわけです。
でも小説は、一部の完全客観小説(いわゆる「神の視点」。これについては、追々語ることになるでしょう)を別にすれば、読み手は作品内の誰かの目や感覚を借りて、その世界の内部に立ちます。言ってみれば、「誰が何を認識したか/感じ取ったか」だけによって、読み手はドライブされてゆくのです。ですので、登場人物がどれだけ激しく活動しても、あるいは素早いテンポで会話をしても、読み手がドライブされなければ「動きがない」という印象になってしまうのです。
この「動き」とは、視点人物の「誰が何を認識したか/感じ取ったか」の“変化”によって生まれてきます。たとえば、さっきまでは気にならなかったことが気になり出す。感じなかったことを感じ出す。見えてはいても視界に入らなかったことが視界に入り出す……。
そうした周囲の世界に対する無意識の取捨選択を追いかけてゆくこと自体が、「心理描写」の本質です。だとすれば、一見すると客観描写のようにも思われる風景についての記述ですら、それを目にしている登場人物の「心理描写」になり得るわけです。
逆に、どれだけ登場人物が「オレは悲しいのだ!」と口にして“説明”してくれようと、あるいは書き手が地の文なりで“説明”してくれようと、それだけでは「悲しい心の動き」は伝わりません。
先日、あるベテラン作家が「小説は雰囲気や無意識といった、本来は言葉にしにくいものを言葉で表現するから大変だし、面白い」と仰るのを耳にしました。なるほど、小説の根源を捉えた卓見だなと思いました。
*本稿は、「第3回yomyom短編小説コンテスト」の開催にあたって2018年11月にエブリスタ上に掲載した一問一答を、monokaki用にリライトした抄録です。
*本記事は、2019年03月13日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。