「客観性」って何ですか?|王谷 晶
年末進行! 王谷晶である。ところでこれは私が聞いた話なんですけどね、知り合いの物書きの人がある夜一人で執筆作業をしてたそうなんです。もう集中して集中して小説を書いてたんですねえ。文字通り物語の中にグッっとこう、入り込んじゃうような。そしたらね、フッと気づいたんです。誰かが見てる……後ろから誰かが見てる……。視線を感じちゃったんですね~怖いなー怖いなーと思って振り返ったら……自分の顔がじいぃぃっとこっちを見てたそうなんです…………。
「当然」は「偏見」のはじまり
というわけで今回は「客観性」の話である。ちなみに連載コラムやエッセイにおける無駄に長いマクラやパロディは年末進行を乗り越えるテクニックのひとつなので、それもついでに覚えて帰ってほしい。
本題に入る。その前にひとくちに客観性と言ってもその表す意味はいろいろあるが本稿では「作品を統括的に見る作者の視線の話」で進めたい。「人生を客観的に見つめる」とかそっちに話が及ぶと私自身本稿を放り出して旅に出たくなるので今回は控えたい。
さて小説における「客観性」というのはどういうものか。諸君の多くは「他人に読んでもらう」を前提に小説を書いていると思う。その場合「作者にしかわからん」「作者の中だけで常識化されている」描写というのは、出すのを控えたり出し方を考える必要がある。極端な話、文中に「その老婆は小学生のとき作者の隣の家に住んでいた山田の婆さんにそっくりであった。」という描写が出たら、その老婆の顔や雰囲気を推察できるのは作者とせいぜい作者の家族くらいである。ひろく一般にアピールできる描写ではない。
また、自分の中の好き嫌いや思想を元にして何かを書くとき。それが当然であり絶対正義であるという書き方をすると、高確率で燃える。人の思想なんて誰のものでもどこかに偏っているものだが、それが「偏見」まで行くと表現として注意しなければいけないし、されにそれを「当然」のように書くのはより問題が大きくなる。
奈良漬オブザデッドは燃えているか
例えば私は「奈良漬」が苦手なのだが、苦手が高じてある日「奈良漬をかじった人間が突如ゾンビ化しパンデミックが起こり人類全員死ぬ」みたいなアイデアを思いついたとする。ぱっと浮かんだアイデアを小説のネタにまで持っていくには脳内会議が必要だ。即座に脳内会議室を予約し脳内コーヒーを淹れて脳内ホワイトボードを用意し脳内プレゼンターと脳内部長を召喚する。
「ここでですね、奈良漬が苦手な人間だけが生き残ってホームセンターに立て籠もるんすよ! けどホムセンにも食品館に奈良漬があってそれをペットコーナーの犬が食っちゃって……」「待ち給え、どうしてもパンデミックの原因は奈良漬でなくてはいけないのか? 」「だって部長も嫌いでしょ奈良漬。嫌いなものなんだからゾンビ化の原因にしちゃいましょうよ~」「いや、我々が嫌いだからと言って病原菌のような描写をするのは問題があるんじゃないか」「問題って例えばなんすか」「奈良漬愛好家から見たらいい気分はしないだろうし、それはいいとしても奈良漬の生産者や販売者の人々にだいぶ失礼なネタだ」「だって奈良漬はマズいじゃないすか! みんな嫌いに決まってますよ。奈良漬をブッ叩いていい気持ちになりましょうよ! 嫌いなものは悪く書いていいんす! そんなん常識っしょ?!」「いや、常識ではない。それはキミの考えでしかない。それに仮にこの企画を通したら偏見や風評被害を煽ったとして全日本奈良漬協同組合に抗議されるおそれもある」「あるんすか?」「えっ?」「あるんすか、全日本奈良漬協同組合って」「……とにかく、『奈良漬』という固有名詞をそのまま使うのはなし。もう少し匿名性のある架空の食品か、別の要因を考えて練り直してくれ」
以上のような決議で、ネタの練り直しをすることになるであろう。もちろん炎上リスクを知った上で奈良漬オブザデッドを書ききる道もあるが、その場合も客観性を放棄していいわけではない。どこからどのように批判されるか、あらかじめシミュレートして対策や根回しを考えておく必要がある。モノが奈良漬ではなく、特定の政治思想や宗教、国や人種に関わることならさらに多角的な見方でネタを練らなければいけないのは、賢明な諸君にはお分かりいただけると思う。
ここからちょっと真面目な話になるが、まず私は官憲による表現規制にはっきりと反対する立場の作家である。同時に差別的表現を批判する一市民でもある。ここに矛盾は一切感じていない。矛盾しないからだ。
自由に思うままに表現することは素晴らしいことだ。創作は人間にしかできない至上の悦びだ。だが本連載でも何度か書いているように、それを出す場所、見せる相手は慎重に吟味してしかるべきである。仮に諸君が誰にでも見える場所で差別的な表現を開陳する自由があると主張しその通り行動したら、激しい批判を受けることになる。
もしどうしてもそういうことをしたいなら、最低でもド批判される覚悟くらいは持つべきだ。他人や特定の属性を侮辱したり攻撃しておいて「批判するやつらは分かってない」「批判者の方が狂っている」「そんなつもりはなかった」みたいな言い草は道理が通らない。そして自分の表現が批判を受けるか受けないか分からないというのなら、それは「客観性筋」の鍛え方が足りないと考えよう。本を読もう。ニュースサイトを読もう。テレビや映画を見よう。誰かに相談しよう。いろんな人の話を聞こう。客観性筋はそれ以外の方法では鍛えられない。
読めば一生不安になる客観性欠如恐怖譚
他、細かいところで気をつけたいのは地域色である。方言、雑煮のモチの形や具、冠婚葬祭の風習など自分は生まれたときから接しているが実はごく限られた地域でのみみられるローカルルールだった、というものはままある。当たり前のように中にアンコが入ったモチで雑煮を作る描写をして作者の出身地が割れてしまうということもあり得る。地域色を出すなということでなく、それも物書きにとっては個性のひとつなので、せっかく出すなら「よそ」と「うち」の違いを認識したうえで効果的に出そう。ちなみに栃木県出身者は「だいじ?(大丈夫?の意)」が方言であることを知った瞬間に成人し、そのお祝いに宇都宮駅前の餃子の像の周りを三日三晩踊りながら回って成人の儀を行う。
今月のオススメ本はミステリの女王アガサ・クリスティ。しかしこの本では殺人は起こらないし名探偵も出てこない。『春にして君を離れ』は、ずばり「客観性」の有無がもたらす地獄を描いている小説だ。自他ともに認める良き妻良き母として暮らしてきた主人公がひょんなことから旅先の異国で一人足止めをくらい、長大な暇に押されるように今までの自分の人生を振り返る……という物語だが、この地味なストーリー、地味な登場人物、特に何が起こるでもない展開がいつの間にか背筋が震えるような緊張を伴ってくる。自分が思っていた自分は、本当の自分ではないのかもしれない。自分が今までやってきたことは、全て自分が思っていたのと違う結果をもたらしていたのかもしれない……それに気付いてしまうのが幸福なのか不幸なのか……。
一度読んだら一生自分の人生にも不安が付き纏うレベルのある種の恐怖譚だが、客観性、相手の立場に立つというものの重要さを嫌という程実感できる作品なので、ぜひご一読いただきたい。
(タイトルカット:16号)
今月のおもしろい作品:『春にして君を離れ』
著:アガサ・クリスティー 訳:中村妙子 早川書房(クリスティー文庫)
優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。
が、娘の病気見舞いを終えてバクダードからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……
女の愛の迷いを冷たく見すえ、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。
*本記事は、2018年12月13日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。