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馬から落馬しちゃいけない?重ね重ね重々に重言を検討|ことば遣い編①|逢坂 千紘

 ご無沙汰しております、今月から新連載の逢坂千紘(あいさかちひろ)です。

 前回の連載『物書きのための校正教室』からさらに踏み込んでいきますが、両連載の基礎をなしている通奏低音は連載タイトルそのまま「ことばの両利きになる」ことです。

 校正という技術に興味がある物書きのかたは、「隙のないことばの使いかた」への関心を温めていると思います。英語にも「impeccability of word(インペカビリティ・オブ・ワード)」という概念があって、非の打ち所のないことば遣い、といった意味になります。そういった非の打ち所を取り除く「守り」が校正のメインですが、創作の「攻め」の部分を発展させてくれるのも校正の魅力です。

 守りと攻めの両利きになることができれば、より豊かで、より自由自在な創作を目指すこともできます。それが両連載の土台となっている考えかたです。

 その上で、ことばについてゆっくり考えてみること、というのが今回の目的地です。校正という軸をひとつ通して、六回で行けるところまで行ってみましょう。それではスタートです。ボンセジュール。

※あくまで私の経験や個人的な考えをつづっております。その点どうか差し引きしながらご味読いただければと思います。

最短で目的にたどり着く「経済性」vs. 新たな質感を生み出す「重層性」

 ことばには、大きく分けて「経済性」と「重層性」があります

 経済性というのは、どれだけ最短でテキストの目的に誤りなくたどり着けるか、という性質のことです。よく知られているのは「省略」という技術で、「先生、トイレ」なんかが卑近な例でしょう。先生トイレにおけるテキストの目的は、急な尿意による授業の中抜け申請なので、それが二単語で完了するのは経済的です。

 一方で、重層性というのは、ことばや意味を重ねて新たな質感を生み出せる性質のことを言っています。重ねるだけなので、例は無限につくれます。たとえば「この街にはタピオカドリンク専門店がいくつかある」に対して、「この街にはタピオカドリンク専門店とタピオカドリンク専門店とタピオカドリンク専門店とタピオカドリンク専門店がある」としたら、非常に異質な感じが漂うと思うことでしょう。

 重ねることで、ことばが元からそこそこ経済的な設定になっていることに気づきます。「タピオカドリンク専門店がいくつかある」という何気ない表現でさえ、それをすこしでも省略せずに書こうとすれば、ゾワゾワする文章ができあがるものです。

 さらにこれが、「この街にはタピオカドリンク専門店とタピオカドリンク専門店と、他ふたつのタピオカドリンク専門店がある」という表現になったらどう思いますか。気になりませんか。どうしてそんな中途半端な書きかたをするんだろうと。もしかしたら「他ふたつの店」は大したことないのかなとか。著者が気に入らないのかなとか。気に入らないけれど事実として書かざるをえなくて、不承不承に付け足した部分なのかなとか。

 ことばを重ねることで、まったく新しい質感が生まれます。重複表現を読み解くうえで大事なことなので頭の片隅にストックしておいてくださいませ。


重複表現はもっと慎重に扱ってもよいと思う

 ここからは重複表現(重言)について触れていきましょう。もちろん賛否両論、諸説紛々のことなので、断じて正解ということではありません。

 そもそも重複表現の取り扱いは、ゲラによってちがうし、校正者によってもちがいます。なので統一的なことは言えないのですが、大事なのはじぶんの軸を持つことです。校正者は守りとして作業しますが、受け返す物書きさんは攻めの姿勢を持っていていいと思います。「頭痛が痛い」が出てきたら、校正者は仕事として鉛筆を入れざるをえないことのほうが多いです。前連載で述べたとおり、大変に迷わされたうえで口を開くことばかりです。

 守りの基準でもある「正しい/正しくない」という、非の打ち所のないことば遣いを物書きさんも前提にしてしまうと筆が萎縮してしまうこともあると思います。なので私は物書きさんには「経済的/重層的」という評価軸で見ていくことも大事だと言いたいんですね。

 たとえば、「頭痛が痛い」は重複表現ですが、重複している部分にパーソナルな感じもあります。人類は痛みというものに抗えないなあという実感が伴った包括的な表現に思えるんですね。逆に「頭痛がする」「頭が痛い」は、もうすこし理性的というか理路整然とした響きがあります。正しい正しくないで言えば「頭痛が痛い」という表現は弱い立場ですが、どちらが正しいということではなく、それぞれ別の表現として検討できるはずです。なんなら、「頭痛の痛い頭には痛みがあって痛い」という表現だって不可能ではない場面があると思います。

 先日、アウトドアギア好きなかたが書いたエッセーのなかで「圧迫感の感触を感じやすかった」というテキストと出会いました。もちろん重複表現ですが、着心地やフィーリングに対するじぶんの気持ちや熱量をダイレクトに伝えたい意図が見えてきます。これを「圧迫されている感触がわかりやすかった」にしたらどうなるでしょうか。それは守りとしては機能しているけれど、攻めとしてはそれでよかったのか。もっと慎重に考える余地があると思います。

 ことばを重ねることはまるでクイズのヒントのようです。重なった部分の連想から、理解度が高くなっていきますその表現が豊かな含みを持つようになります。それを「サブテキスト」や「アンダートーン」といいます。小説では万単位の字数を重ねるため、独特な含み(アンダートーン)に満たされるものです。その分だけ物書きさんが見ている世界や人間というものが理解しやすくなっています。これはまちがいなく長文のおもしろさのひとつでしょう。


見た目の重複と意味の重複

 話を重複表現のほうに戻します。

 「違和感を感じる」は重複しているので、「違和感を覚える」に修正されがちですが、ここには見過ごされがちな問題があります。この「覚える」というのは、「感じる」のニュアンスを微妙にずらしただけで、大枠の意味としては相変わらず重複しているんですね。

 ほかにも「旅行に行く」の見た目を修正しようとして、「旅行に出かける」に修正されることもあります。同様にニュアンスがずれただけです。

 さらに「犯罪を犯す」も見た目が重なっているので標的にされますが、仮に「罪を犯す」にしたら今度は許容しがたいほど表現が変わってしまいます。「罪深い/*犯罪深い」「罪滅ぼし/*犯罪滅ぼし」「犯罪に走る/*罪に走る」などを見ても、罪と犯罪が気軽に交換できないことは多くの物書きさんも承知のことでしょう。

 そういった表現の専権は物書きさんにあります。馬から落馬してもいいし、旅行に行ってもいいし、調整を整えて、建築を建てて、献金を出して、錯覚を覚えて、作文を書いて、記録を記して、複製を作って、返事を返して、食事を食べて、定義を定めて、予感を感じて、訃報を知らせて、遺言を残してもいいと思います。それはそれでひとつの攻めのテクニックとしてやってみるのも面白いですよね。

 小説の校正がいちばん難解と思われるのは、見た目の重複、意味の重複、あえての重複など、それぞれに独特の印象、ニュアンス、リズム、質感があるからです。


重複表現に鉛筆が入ったら、そのテキストが音割れしていないか再検討

 それでも、校正者は分からず屋だから無視しろ、という意味ではありません。編集者や校正者が素読みのときに「重複表現」や「重言」などを通じてチェックしようとしているのは、作品にしっかり一定のコンプレスがかかっているかどうかです。十万字の壮大な作品を「ちゃんと読めるよう」あらゆるテキストに目を通して、圧をかけておなじ質感に保っておくんですね。

 極端に言えば、ページごとに紙の色が違ったり、文字ごとに太さがちがったりしたら読みにくいです。落丁は、CDで言えば音割れみたいなものです。返品と交換ですよね。プロのつくったCDを聴いていて音割れしないのは、その音楽にしっかりコンプレスが入っているからです。おなじです。

 そういう「音割れみたいな読みにくさ」から解放されてほしい、というのは出版に責任をもつ編集サイドのポリシーです。だからこそ、過剰なほど保守的に思える「守り」の作業をスペシャリストたちがやるわけです。十万字もある長文を、ひとつの作品に仕上げるために、各工程でいろんなひとが目的をもって圧力をかけるんです。

 加圧された原稿が物書きさんに返ってきて、その素晴らしさによろこぶ物書きさんもいれば、予期していなかった手入れに失望する物書きさんもいます。いろいろです。なかには、そのオールドスクールな工程がチンタラしているように感じられて「出版社とかもうオワコンだな」と思う物書きさんもいます。ほんとうにいろいろです。

 お伝えしたいことは、重複表現に怯えることはないということがひとつ。正しい日本語なんてないということがひとつ。これは何回でも言います。正しい日本語というのは一種のお化けです。歴史や伝統はありますが、歴史や伝統がいつだってあなたの創作の味方をしてくれるとは限りません。

 それでも校正者や編集者の鉛筆が入ったときは、その重複表現があると作品の「圧」に影響が出るかもしれない、という判断がどこかの段階で下ったということを理解しておいてほしいというのがもうひとつです。


作品の圧力をセルフチェックするときの最大のポイント

 「作品に一定の圧力がかかっているか」をセルフチェックするときの最大のポイントがあります。それは、自分自身で書いた(自身による執筆)、という事実や確信を再確認することです。

 仕上がった草稿にはおおむね「どこかで聞いたような文言」や「コピペをつなぎあわせたような文章」がよく紛れ込みます。焦っているとき、気分の上下があるとき、ほかのひとの作品の影響が拭えないとき、レトリック欲(いい感じに書いてやろう欲)が出ているとき、推敲マラソン欲に抗えないときなど、「自身による執筆」がブレることはよくあります。

 執筆という行為のうちに生じた大小のブレやエラーを、後から直せることが書き言葉の特徴です。後からあらためて考えて本調子のじぶんだったらなんて書いたか、というポストディクティブな視点で添削することができます。

 じゃあどうやって「自分自身で書いた(という事実や確信)」を確認するのか。そのひとつの答えが校正です。より厳密に言えば、校正者のように読むことです。それは正しい日本語に対するプロフェッショナリズムを高めろということではなくて、「まずは裁量をもたずに読んでみる」ということです。語弊をおそれずに言えば、校正者には裁量も権限も責任もないんですなんなら作品の「読者」であることさえ捨てて、産まれたてのことばと生身で接します

 特権を忘れて読むことができれば、経済的なことば、重層的なことば、その頻度や深度、あるいはリズム、さまざまな要素とつながりと違和感が見えてくるものです。

 むずかしく聞こえるかもしれませんが、だいじょうぶです。なにか特別な才能が必要なわけではなく、むしろ「正しい日本語」や「日本語に対するプロフェッショナリズム」を外すことが欠かせません。その第一歩として、今回は重複表現を取り上げてみました。

 重複表現はパーソナルな質感をもっているし、クイズのヒントのように連想的です。それだけたくさんの情報を含みます。だからこそ慎重に用いることを推奨しますが、正しくないから用いるなということはありません。これを機に、物書きのみなさんのなかにじぶんなりの基準が芽生えていったらさいわいです。

 それでは、次であるところの次回の続編でまた再び再会いたしましょう。


*本記事は、2019年07月23日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。