校正者が重たい口をひらくとき|逢坂千紘
こんにちは、逢坂千紘です。
ハッシュタグ「#monokaki公開校正」に投稿いただいた作品を、校正者の目線で読んでいく「物書きのための校正教室 monokaki公開校正シリーズ」の第二弾です!
前回は長くなりすぎたこともあって、今回は3作品から校正的なポイントを解説していこうと思います。
「読んでもらえるように原稿をキレイにする」という連載の原点に立ち戻って、「原稿のルール」や「文章作法」に重点をおいて解説してまいります。ひとつでも「勉強になった」と思ってもらえますように。この記事がみなさんの創作の熾火となりますように。
(※いつものディスクレーマーを念のため記しておきます。一介の校正者の個人的な意見をもとにした読み物です。校正や文法には正解がありません。考えかた、判断基準、時代の流行、諸都合、いろいろなものがあります。ご理解のほどよろしくお願い致します。また「*」というマークがついているものは、言語学でよく用いるマークで、「不適格な表現、誤った文法」という意味です。)
ルールは決まっていたり、決まっていなかったりする(だから面倒になったり、美意識が反映されたりする)
作品名:初恋をもう一度。
作者:寺島かなた
URL:現在掲載無
名前とこの情報だけで、充分だった。
本当はそんなことない筈なのに、変な嘘をついてしまったせいで、これしか選択肢がなくなってしまった。
(1)組版のルールはできるだけ守りたい
原稿作成には、原則がいくつか存在します。たとえば、行段落を変えたら、文の頭を1マス空ける(字下げ)とか、句読点などが文頭に来てはいけない・英単語が文頭と文末で分離してはいけない(禁則処理)といったものです。
それと似たようなもので「区切り役物(疑問符など)の直後は全角で1マス空ける」という慣行のようなものがあります。寺島かなたさんの作品のなかに出てくる「本当に?見間違いじゃなくて?」で言えば、「本当に? 見間違いじゃなくて?」となるということです。
この原則は「絶対にやれ」というタイプの原則ではありません。ただ、読む側は、そこそこルールが守られていることを想定します。秩序を期待します。とくに新人賞などで作品を読んでくださる編集者のなかには、表記は美学だと思っているかたがけっこうおります。
作品は読んでもらってなんぼだと思いますので、「型を破りたい」よほどの理由がなければ、現行のガイドラインを調べて守ってみるとよいかもしれませんね。
ちなみに、よくみる記号(約物:やくもの)の名前をご紹介しておきます。”……”は「二倍三点リーダー」で、”――”は「二倍ダッシュ(ダーシ)」といいます。”「」”は「はじめかぎかっこ」と「終わりかぎかっこ」、”・”は「中点(なかてん)/なかぐろ」などなど。
ついつい1つ入力して満足してしまう三点リーダー(…)やダッシュ(―)ですが、2つ重ねる(2倍にする)根拠のようなものは明確にされていません。ただ、慣例として重宝されている原則ですので、正しい日本語感を手軽に醸しだすのにめちゃくちゃ有効です。
踏み込んで知りたいかたのために記しておきますが、こうしたものは「ページネーション」などと呼ばれ、やたらとマニアックな知識が多いです。校正者や編集者でも「完璧だぜ!」というひとはまずいないと思います。
プロの編集者が組んだ本でも、欧文(英語など)のルールを失念して「エリプシス」(欧文版三点リーダー)を使うところで日本の三点リーダーを使っていたり、引用符がクルッと丸まっていない「まぬけ引用符」になっていたりします。そのほか、「ダブルハイフンとナカグロ」とか「波ダッシュ・チルダ問題」とかを調べていくうちにだんだんオタクになれます(笑)。
(2)ほとんどの使い分けにはルールがない(十分・充分)
「十分と充分はどちらが正しいですか」という質問をいただくことがあります。これについて深入りすると危険で、どっちも通用する表現なのでお好きなほうをお好きなように、という塩対応になってしまうタイプの質問です。
ですが、細かいニュアンスを大事にする作家さんにとっては、大事な使い分けだと思います。ここからは私の理解になりますが、なにかの参考になればと記しておきます。
中国語には「十分」も「充分」もあります。「十分」は程度の表現に用いて、「充分」のほうは要件を満たしていることを示すために用いるボキャブラリーです。どうも数字がはいる表現は、ニュアンスを匂わすときに用いられることが多いです。
たとえば「千万千万别忘了/チェンワンチェンワン ビエンワンラ」と書けば、「ぜったいに忘れないで!」のような強調表現になります。「万分可笑/ワンウェン クァシアオ」と書けば、めちゃくちゃおもしろいという意味になります。ただしこれは誇張表現なので、まったくおもしろくないときに用いるのですが……(笑)。
なんでもかんでも中国語と照らし合わせて考えるのはよくありませんが、「十」というキリのよい数字をつかうキリのよいニュアンスの表現だと理解しています。たとえば「十年一昔」も、きっちり10年ということではなくて、時代の区切りのことですし、そういうイメージです。いちおう、辞書も引きます。
じゅうぶん【十分・充分】不足のないようす。
――『三省堂 現代新国語辞典 第六版』より
とてもシンプルな語釈でした。対義語には「不十分」が出ていましたが、「不充分」という表記が市民権を得てもいいと思います。ちなみに中国語では「不充分」と表記できます。
校正者としては、作家さんが「十分/充分」どちらを用いていても(ほぼ絶対に)深入りしませんが、よく質問をいただく使い分けなので、決まってないよ、ということをお伝えするために取り上げてみました。参考になるとうれしいです。
(3)文章作法というルールにどこまで寄り添えるか(なぜ形式名詞は開くのか)
本文「本当はそんなことない筈なのに」の「筈」に鉛筆をいれてみました。こちらは形式名詞などと呼ばれていて、文章作法のコンテクストで注目すべき表記となっています。文章作法としては、ひらがな書きにする原則となっているため、よく鉛筆がはいるところです。
形式名詞(補助名詞)というのは、簡単にいえば「語句の前後をくっつけるために(あるいはニュアンスを補うために)いれる意味の薄い名詞」のことで、「筈なのに」「する所だった」「言った物の」「知ってる癖に」「程に」「補う為に」などいくつかあります。
「補う」といわれても文法的でわかりにくいかもしれませんので、厳密な説明を捨てて、わかりやすさに特化した具体例をあげます。マザーグースのようなことばあそびですが、「君を呼んだ兄を育てた母を救った町医者を紹介したテレビ局を買収した男の物語」のような文があったとして、シンプルに正しく組み立てているのに読みにくいです。
ここに「の事/のこと」という名詞をいれて補ってみます。「君(のこと)を呼んだ兄(のこと)を育てた母(のこと)を救った町医者……」と差し込んでみると、前後の関係がわかりやすくなります。補う用途で登場する「こと」は、意味は薄れていて「事柄・事象」のニュアンスがほぼないので、ひらがな書きにすることしましょう、というのが形式名詞の文章作法です。繰り返しますが、イメージをつかんでもらうためなので、厳密な説明ではありません。
当該の「筈」ですが、漢字で表記したほうがカッコいいし、見た目の締まり具合もいいです。ただ、ひらがな書きが推奨されているということをお伝えするために、鉛筆で説明させていただくこともあります。もちろん最後の判断は、作者さんの美意識というか、審美眼というか、重視したいものというか、価値基準のようなものに委ねられます。
本来の読み方→くだけた読み方→読み違いから生じた読み方
作品名:指先が孕む温度
作者:ゴトウユカコ
タイマー設定の炊飯はご飯が炊きあがっていることをぼんやりと示している。(4ページ目)
例え、2人の時間が減っていても。(7ページ目)
パジャマ姿で片付けをひと段落させた私は……。(8ページ目)
(1)炊飯器のことを炊飯とするか、いろいろなところからヒントを探る
話し言葉では「炊飯器」のことを「炊飯」と略して用いることもあるので、ママ(そのまま)でもよさそうですが、このあと食洗機は「食洗機」と記してあったので、念のために確認します。実際の現場では、「器?(参考:5頁12行目「食洗機」)」のような鉛筆出しがあります。
こういった疑問を出すときは、作家さんの味や色だった部分を損なってしまうこともあるので、校正者としてはギリギリの精神です。時間に余裕があるときは、過去作品をできるだけ読み込んで、悩むのがバカバカしくなるぐらい癖を把握するのが理想ですね。今回は似たような「食洗機」があったので、もしかして思って疑問を出しました。
前回も記しましたが、こういった疑問出しは、作家さんからの戻しがもっとも勉強になります。「ここは炊飯でいきます!」と返ってきたら、そういう文体だったり、そういう味だったり、人物描写のひとつだったりがあると知ることができます。「炊飯器でした!」となれば、口語が混じった地の文は避けたい作家さんなのかもとか思ったり。吸収するものが多いです。
(2)頻出の誤変換「例え」と「もうひとつの文章作法」(和語の副詞)
「たとえ(仮令)~ても/*例え」は、「たとえ」ということばに、漢語の「仮令」をあてたものです。「たとえ」で変換すると、変換機能が「例え」を提案してくるので正しい表記だと思われがちですが、この場合は用いることができません。
そして、もうひとつ。せっかくですので、文章作法の続きです。さきほどは「形式名詞はひらがな書き(推奨)」ということでしたが、今回は「和語の副詞はひらがな書き(推奨)」です。
「仮令(たとえ)」とか、「何故(なぜ)」とか、「所謂(いわゆる)」とか。あとは「勿論(もちろん)」「忽ち(たちまち)」「漸く(ようやく)」「滅多に(めったに)」「徐に(おもむろに)」「態々に(わざわざに)」「尤も(もっとも)」などでしょうか。もっとたくさんあります。
文章作法としては(あくまで作法としては)、こういったものはひらがな書きにしたほうが読みやすくていいよね、という話です。漢字のほうが美辞麗句でクールですが、和語の副詞に漢字をあてたものの多くは難読漢字です。言うまでもなく、擬古文のような作風であれば、中国語に寄り添った表記というのは味になってくるでしょう。
(3)「いち段落」と「ひと段落」、辞書の記述
さきほど参照した『三省堂 現代新国語辞典 第六版』では、「ひとだんらくは、俗な言い方」とありました。はっきりと「誤用」「明確な間違い」などと言わずに許容感をもたせているところに好感が持てますね。ことばのプロといわれる「アナウンサー」も、ひと段落と発音するのであまり気にしなくてもいいかもしれませんが、校正者としては念のため「俗な言い方とありますが、大丈夫でしょうか」と出します。
ちなみに同辞書では、「堪能(かんのう)」については、「堪能(たんのう)」の見出しで「本来の読み方はかんのう」とシンプルに説明していました。「真逆(まぎゃく)」には、「ややくだけた言い方」と補足してあり、「人ごと・人事(他人=事)」の見出しには「たにんごとは他人事の読みちがいから生じた言い方」とあり、客観的な記述にとどめてあっていいですね。
このあたりは、もうがんばるしかないです。「乳離れ(ちばなれ)」とか、「美人局(つつもたせ)」とか、「続柄(つづきがら)」とか、「出生率(しゅっしょうりつ)」とか、「月極(つきぎめ)」とか、間違えさせにきているのではないかと思うほどむずかしいです。
こういったミスについて、各辞書がどのように扱っているのか見てみるのもおもしろいです。辞書比較記事ではないので、これについてはまた今度。校正者はみなさん重宝している辞書ラインナップがすこしずつちがっているので、校正者の愛用辞書話もおもしろいかもしれません。
「暖かい」と「温かい」のちがいは?
作品名:見習い巫女と不良神主が、世界を救うとか救わないとか。
作者:ひな(桜瀬ひな)
罰悪そうにそう言うとくるりと、彼は向きを変えて……。(p.24)
……足元に暖かいものを感じて……。伝わる暖かさに、……。(p.25)
祖父は神主やってるから祝詞を上げて欲しいとか地鎮祭とかの依頼でお客様が来ることは少なくない。(p.32)
(1)「ばつが悪い」、変換機能ネイティブ世代の宿命
これはひらがな書きしかない表現で、私たち「変換機能ネイティブ世代」が宿命的にもっている「いちばん近そうなものに変換してしまう手癖」のトラップです。「はためく/*旗めく」や「この曲のサビが好き/*寂びが好き」などもあるでしょうか。漢字にできません。
変換機能の提案によって生じる誤変換としては、前回の「*にも関わらず」もそうですし、「*以外にイケメンな彼」とか、「*私用方法」とか、「*発送が足りない」とか、私もよくやります。
(2)「温かい/暖かい」の使い分けも、そんなに簡単ではない
こちら「暖かい/温かい」問題も、必ず疑問出しすることにしています。
イメージを優先していいところだと思いますが、規範的な説明では「気温や温度がちょうどいい」ときに「暖」を用いて、手で触れたときのあたたかさや心理的な情熱が伴うものに「温」を用いるようです。本文の場面では、やや心理的なニュアンスに寄っているように思われるので「温かい」をサジェストさせてもらいました。
ただ、「寒の対義語としての暖」という説明もあります。その法則にのっとって考えてみると、本文では「心が寒い」状態から遷移した先の「暖かさ」かもしれないです。ならば「暖かい」こそが適切なのかなと思います。いつも一筋縄ではないです。
辞書によっても記述にバラつきがあるので、ぜひお手元の国語辞書で確かめてみてくださいませ。
(3)今度の文章作法は、形式形容詞「欲しい」
(文章作法において)形式名詞はひらがな書きでしたが、おなじく形式形容詞(「してもいい/*良い」「食べられない/*無い」)もひらがな書きが推奨されております。
本文「祝詞を上げて欲しい」の「欲しい」は、一般に「形式形容詞」と呼ばれています。さきほどの形式名詞とおなじように、意味自体はあまりなく、ニュアンスを補うかたちで文を機能させている形容詞です。
本動詞の「欲しい」は、「このお洋服が欲しい」のように、手に入れたいという意味が出ています。一方で、「このお洋服を着て欲しい」とした場合は、手に入れたいという意味ではなく、メインの「着る」をお願いするニュアンスになっています。これが形式形容詞、補助形容詞です。
このあたり「そうか?」と思う物書きさんもいるかなと思いますし、私もまだ完全に納得しているわけではありませんが、ざっくり国語慣行的にとりあえずそうなっています。そうなっているので、そういうふうに考えて、ひらがな書きが推奨されているということです。文法の説明というのは、後付けの理屈なので、納得いかないこともよくありますし、学者のあいだでも立場によってぜんぜんちがうことを主張していたりします。
立場や納得とは別に、多くの場面で利用されている「作法」として、別会計の理解をしておくとよいかと思います。私の説明よりも、さらによい説明と出会えるといいですね。
こうしたことを語るには、どうしてもたくさんの免責がつきまといます。「原則や作法であって絶対じゃないですよ」とか、「正しいわけじゃないですよ」とか、「いろんな立場がありますよ」などなど。そういうめんどうな都合上、校正者にとって「?」というのは生命線です。
みなさんの原稿に「?」がついたときは、原稿のクオリティアップや新たな探求のために、校正者がやっとの思いで重たい口をひらいたのだということを、この連載からすこしでも感じとっていただけたらうれしいです。
ふだんは「?」の背後にひそんでいるさまざまなルール、知識、思考、校正的なポイントがまだまだたくさんあるので、できるかぎりお伝えしてゆきたいと思います。そのなかで「正しい日本語」という概念がだんだん文字化けしていく経験や、「書く/読む/見直す」という創作的な行為にあらたな曙光がさすことを祈っております。
*本記事は、2018年10月26日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。