「エンタメ/純文」って何ですか?|王谷 晶
節句・ドラッグ・ロックンロール! 王谷晶である。風薫る季節、這い寄る五月病、諸君も悩み多き日々を過ごしているかと思う。だいたいの悩みというのは焼肉と柏餅を食って十二時間寝ると解消するのだが、それでは消えない形而上的な問題を今回は考えていきたい。
書きたいものはエンタメ? 純文学?
その問題とはずばり「エンタメ小説と純文学の違い」である。担当編集I本氏によると、読者アンケート等でもこの疑問は多く寄せられているのだという。自分が書いている、もしくは書きたいものはエンタメなのか純文なのか。そのへんのところをハッキリさせておきたい、ということらしい。
しかしですね~これ、人類がモノを書き出してからえんえんと続いている話でもあるわけですよ。「◯◯が純文なら☓☓はどうなる?!」とか「△△はもはやラノベではない!」とか「ミステリやSFは純文学になりえない」とか「CLANNADは人生」とか、数多の物語愛好家が喧々諤々してきた議題なのだ。そもそもエンタメ小説の定義、純文学の定義とはなんなのか。困ったときの国語辞典。というわけでちゃっと「純文学」を引いてみるとこう出た。
① 大衆文学・通俗文学に対して、読者に媚びず純粋な芸術をめざした文学作品。
② 哲学・史学を含む広義の文学に対し、美的形成を主とした詩歌・小説・戯曲などの類。
(大辞林より)
辞書的な意味合いでは「読者に媚びず純粋な芸術をめざした文学作品」が純文学の定義ということになるわけだが、どうですこのフワッとした表現。媚びとはなんぞや、純粋な芸術とはなんぞや、といくらでも横入りができてしまう。じゃエンタメは読者に媚びて不純な芸術ってことなのか。そりゃいくらなんでも雑だろう。
ナウな純文学を読んでみよう
つまり、明確なガイドライン的定義なんて決めようがないのだ。一ページに一回パンチラが炸裂する話や受付から会長まで全員美青年で全員カップルになるBL商社を描いた小説でも、作者が「これは誰にも媚びてないし自分の中の純粋な芸術を描いた」と強弁すれば、純文学と名乗ることは名乗れてしまう。
でもまあそれだといろいろややこしくなるので、現在商業出版においては、エンタメ小説と純文学の境目は「出してるレーベル/載ってる雑誌」でざっくり分けられている。例えば主な文芸誌、すなわち「文藝」「すばる」「新潮」「文學界」「群像」のどれかに載っていると、押しも押されぬ純文学扱いをされる。はずだ。
しかし「純文学」と聞いてまず諸君はどのような小説を思い浮かべるだろうか。日頃から文芸誌は発売日に買うし芥川賞ノミネート作は全部読んでますみたいな純文ファンはとりあえず置いておいて、だいたいの人は、あんまし読んでいないと思う。純文学。特に古典ではなくナウなやつ。私も恥ずかしながらそんなに数は読んでいないのだが、しかし世間一般にある純文学のイメージ、すなわち「かたっくるしい」「難しい」「つまらない」「分かりづらい」(Googleの検索窓に「純文学」って入れると「純文学 つまらない」ってサジェストが出てくるのだ)etc……と、ナウな純文学に乖離が起きているのは肌身で感じている。
実際に読んでみると、今現在(いやほんとは昔から)「娯楽」と「芸術」はそのボーダーラインが非常に曖昧であるのが分かると思う。例としていま部屋の中で一番手近に置いてあった本、雑誌『文藝』2018年冬季号をぱらぱらめくってみる。この号は純文学新人賞のひとつである「文藝賞」の発表号なのだが、その受賞作『いつか深い穴に落ちるまで』(山野辺太郎)のあらすじは「日本のサラリーマンがブラジルまで直通する穴を地球に掘る」というド派手かつ荒唐無稽なものである。第155回芥川賞をゲットし国内のみならず海外でも大ヒット&大話題になった傑作『コンビニ人間』(村田沙耶香)も初出は『文學界』の純文作品だ。
自分なりのボーダーラインの持ち方
エンタメ小説と純文学の間にあるボーダーラインが消えたわけではない。埴谷雄高の『死靈』と伏瀬の『転生したらスライムだった件』が同じレーベルから刊行されることは今後もほぼ確実に無いであろう。しかし、その線引きはより曖昧に、複雑になっている。エンタメがおちゃらけたユルい小説一辺倒でないのと同じように、純文学もおカタく小難しい話ばかりではない。最近あまり聞かなくなったが「中間小説」というジャンルもある。ズバリ「エンタメと純文の間」あたりを浮遊している小説を指すのだが、前述の通り双方の境界線が曖昧になった現代ではこの中間小説という区切りもさらに曖昧になり、明文化が難しくなっている。
なので強いてエンタメ小説と純文学の違いを言うなら、エンタメには明確なオチが求められる、くらいだろうか。それだって100%そうとは言い切れない。人生の苦悩と深淵をラノベ的アプローチで書くことは可能だし、異世界転生ダンジョン攻略物語を純文学的アプローチで書くことも可能だ。そして小説は生き物なので、時代によってジャンルの定義も内包するものもどんどん変化していく。今のエンタメ、今の純文学がどういうものか知りたかったら、書店にダッシュして手当たり次第いろんな本を読んで、自分なりの解釈を構築するしかないのだ。
「エンタメ/純文」論争をメタ的に楽しめる映画
今回のおもしろ作品はこれだけ小説の話をしておいてあえての映画、『バートン・フィンク』。1991年のカンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドール、監督賞、男優賞の三冠を得た作品だ。ストーリーは、社会派な作風で気を吐く新鋭劇作家の主人公がハリウッドに招かれるが、当初の話と違い有名スターを起用したアホなスポ根ものの脚本を無理やり書かせられ悄然、スランプに陥ってしまうが……というもの。
太平洋戦争前夜のアメリカを舞台に、主人公がエンタメと芸術の狭間で懊悩しながら周囲に振り回され追い詰められていくさまが綴られていく。と同時に、この映画自体がショッキングな殺人事件などのエンタメ要素を盛り込みつつ、見る者を混乱させ深読みと考察を引き出す芸術作品なのだ。主人公、そして映画を観ている自分も「芸術とは? 娯楽とは? 自分は何をやっているんだ?」と混迷していくメタ要素が楽しい。いや愉快な話ではないんだけど。
ところで映画にも「エンタメと純文」みたいなアレはあり、あえて分けるならカンヌは純文寄りでアカデミー賞はエンタメ寄りである。同年のアカデミー賞では『バートン・フィンク』は作品賞にはノミネートされず、他の部門でも無冠に終わった。
(タイトルカット:16号)
今月のおもしろい作品:『バートン・フィンク』
カンヌ国際映画祭三冠(パルムドール、監督賞、主演男優賞)を達成したコーエン兄弟による異色サスペンス!
Blu-ray:1,886円+税/DVD:1,429円+税
発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント
2019年5月の情報です。
*本記事は、2019年05月09日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。