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ファンタジーからファンタジーへ|水野良から川原礫へ〔後編〕|前島賢

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 今回の原稿執筆にあたっては、テーブルトークRPGをはじめとするゲームやWeb小説の歴史に関して、作家、翻訳家の海法紀光氏より貴重な助言を頂きました。記して感謝の意を表します。もちろん文責は評者にあり、文中に誤謬や不備等があれば、それは評者の勉強不足、理解不足によるもので、すべての責は評者にあることは言うまでもありません。

広がり続けていた「余地」

 いずれにせよ、従来のライトノベル・ファンタジーにおいて、ファンタジーRPGのもつ「物語」の面白さを、「ファンタジー小説」として再現する方法は『ロードス島戦記』や『スレイヤーズ!』などによって比較的早期に確立されたが、その「ゲーム」の面白さを、小説の形で再現する試みについては、いくつかの成功例があるとは言え、一個のスタンダードな手法となって大きな潮流を作るまでには至らず、比較的、手つかずに残されていたと言えるのではないだろうか?

 一方、ライトノベルにおいてファンタジー・ブームが一段落した90年代後半以降、RPGには大きな波が訪れていた。『ウルティマ・オンライン』(97/H9年)や『ラグナロク・オンライン』(02/H14年)といったMMO-RPGの登場である。特に後者は日本においても大きなヒットタイトルとなり、その後も多くのタイトルが続いた。タイトルによっては従来のコンピューターRPGを大きく上回る自由なプレイが可能で、しかし大勢の見知らぬ人間がネットを通じてひとつの世界を共有する、という新たな経験は、多くのプレイヤーに、新たなRPGの面白さを提供した。その意味でいえば、その「余地」はライトノベルにおけるファンタジー・ブームの沈静化後も、ますます拡大する一方だった(注1)。
 この、余地として残されていた「ゲーム」の面白さが、一気に、花開くことになった二度目のライトノベル・ブームだったと言える(注2)。


『ソードアート・オンライン』と二度目のファンタジー・ブーム

 こうした新しいライトノベル・ファンタジーを生み出したのは主としてWebだった。インターネットだからこそ、「小説にレベルとかパラメーターなんて言葉を出すなんて」という従来の小説観からは自由であれた側面もあっただろうし、また、紙幅という制限がないことは、トライアンドエラーやルーチンワークの繰り返し、というゲーム的な面白さを物語に置き換える際の助けとなったはずである(注3)。

 もちろんその嚆矢となったのが、川原礫の小説『ソードアート・オンライン』であったのは間違いない。同作は2002(平成14)年から2008(平成20)年まで著者である川原礫のウェブサイト上で連載されていた作品だ。
 VR-MMOの中にプレイヤーたちが閉じ込められ、ゲーム中の死が実際の死に繋がるデスゲームに参加させられるという型式で、RPG的な要素を自然に作中に取り込みつつ、これを、十代の少年少女たちが突如放り込まれた世界で命がけで戦い、時に恋をしながら、冒険するファンタジー小説の面白さと両立させて見せた。
 すでに2000年代中頃には、ウェブ小説の世界では定番になっていたという同作は、2009(平成21)年、川原礫が『アクセル・ワールド』で第15回電撃小説大賞≪大賞≫を受賞して商業デビューしたことがきっかけで書籍化、瞬く間に電撃文庫の人気シリーズとなった。

 こうして登場した新たなファンタジーの人気作の後を継ぎ、ライトノベルにおける二度目のファンタジー・ブームを起こしたのが、「小説家になろう」を初めとするウェブ上の小説投稿サイトに投稿された作品たちだった

 2011(平成23)年には、2ちゃんねるに連載されたSSが『まおゆう魔王勇者』として書籍化され人気を得ていた橙野ままれが、2010(平成22)年から「小説家になろう」で連載していた『ログ・ホライズン』が書籍化。これは、「MMO-RPGのプレイヤーがゲームと酷似した世界に転移する」という設定をもつ作品だ。同年には電撃文庫からおなじく「小説家になろう」連載の『魔法科高校の劣等生』も書籍化。これらの作品のヒットにより、「小説家になろう」をはじめとするWeb小説に、出版社の注目が集まり出し、とりわけ「なろう」において人気ジャンルとなっていたファンタジーものが次々書籍化されていった
 なかでも特筆すべき作品に、2011(平成23)年から連載が開始され、2012(平成24)年に書籍化された蘇我捨恥『異世界迷宮でハーレムを』がある。これまで見てきた作品がVRゲームなどの劇中ゲームを、作中にゲーム的要素が存在する理由としていたのに対し、本作では、「転生した先の世界に普通に、レベルやステータスといった概念が存在する」というある意味で潔い形をとっている。さらに「現実世界への帰還」「異世界転移現象の謎の解明」といった要素が後退し、物語は異世界での成り上がり生活そのものがメインとなっているなどと言った点で、先行作からの変化が見られる。その後、本作が持つ、こうした特徴は「小説家になろう」における異世界ファンタジーの、ひとつのスタンダートになっていく。
 こうした形で、ライトノベルにおいて従来のファンタシーのそれとは異なる、RPGにおける「ゲーム」の面白さを小説で表現しようとする傾向をもった作品が、新たなるファンタジー・ブームのなかでひとつの大きな潮流となっていった(注4)。

 しばしば(いささか事実に反して)「なろう」投稿作の代名詞にもなっている「チート」とは、まさにゲーム的な行為だし、他にも、『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』、『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』『剣士を目指して入学したのに魔法適性9999なんですけど!?』……と現在刊行中のタイトルを並べてみたが、それを読むだけで、「序盤の雑魚相手にひたすらレベルあげしまくる」とか「極端にも程があるパラメータの振り方をする」とか「やろうとおもってた職業とキャラの能力が全然合わない」とか、RPGのプレイにおいて「あるある」な体験が浮かんでくるはずだ。


「極北のひとつ」としての『蜘蛛ですが何か?』

 なかでも、評者が愛読しているのが、馬場翁『蜘蛛ですが何か?』である。
 本作は、しばしば「なろう」発の小説の中でも「極北」と言われている作品だ。タイトルどおり、大迷宮の中に最弱クラスのモンスターである蜘蛛として転生してしまった女子高生がそれでも生き残りをかけて過酷な迷宮の生態系の中でサバイバルを試みる物語である。内容は(とくに前半の「エルロー迷宮編」は)極めてストイックであり、弱小な蜘蛛がそれでも倒せる敵を倒し、ほんの少しレベルアップし、もうちょっと強い敵を倒し、スキルを手に入れ、それをもとに新しい戦略を練り、それでもってさらに強い敵を倒してレベルアップして新スキルゲットして、さらに強い敵に挑んでさらにスキルを得てスキルの構成を考えて……という過程がひたすらに描かれ、最弱だったはずの蜘蛛は、次第に得体の知れない怪物と化していく。

 言ってみれば、RPGから、戦闘とレベルアップとキャラクタービルドの快楽だけを抽出したような内容で、人によっては何が楽しいのかと思われるかもしれない。しかし、RPGを始めるとストーリーなどそっちのけでレベル上げに邁進し、邁進しているうちに次にどこへいけばいいか忘れて詰む、という評者のようなタイプの人間にとっては、自分の求めるRPGの快感を、不純物ほぼなしで追体験できるという、とんでもなくご褒美な作品だ。こんな小説が読めるとは、考えたこともなかった。

 さらに本作は、「無味乾燥」で「雰囲気がない」といわれる、RPG的な描写を、表現において逆手に取ることさえやって見せる。本書の蜘蛛は日々の行動によってもスキルを獲得するのだが、ふとした油断から絶対勝てない強敵モンスターに遭遇する。その時の恐怖を、本作は、

《熟練度が一定に達しました。スキル『恐怖耐性LV1』を獲得しました》
(中略)
《熟練度が一定に達しました。スキル『恐怖耐性LV1』が『恐怖耐性LV2』になりました》
(中略)
《熟練度が一定に達しました。スキル『恐怖耐性LV4』が『恐怖耐性LV5』になりました》

 と、無味乾燥なゲーム的なメッセージの羅列で語らせてしまう。つまりは強敵から隠れているだけで、恐怖に耐える能力がひたすらに上がってしまう、そして上がっても上がっても怖さが止まらないほどに、「とてつもなく怖い」、のである。無機質なシステム・メッセージが紙面を埋め尽くす様に、「言葉にできない恐怖」を語らせるこの手法に、評者は率直に言って大変感心させられた。


メディア間の交流が生み出す創造性

 平成の終わりになり、いまや、ライトノベルは、ファンタジーRPGの「物語的体験」のみならず「ゲーム的体験」をも小説に取り込む方法を確立し、それをうけて新たな日本語表現の可能性を模索するまでになってきている。
 いささか大げさかもしれないが、評者はそう考えている。

 もちろん、評者とて『ロードス島戦記』からさかのぼる形で過去のファンタジーの名作に触れていったことのある人間だから、そうした伝統的ファンタジー小説に慣れ親しんだ読み手からすれば、レベルやらステータスやらという数字が書き連ねられた小説に拒絶反応を起こすのもある意味、当然のこととは思う。ただ、そうした伝統的なファンタジーは現在においても(一般小説はもちろん、「小説家になろう」をはじめとするWeb小説においても)多くが書かれており、問題とされるべきは個々の作品ではなく、読者と作品のマッチング機能の不全ではないかと思う。

 評者としては、RPGをはじめとしたゲームが持つ、本来、非物語的、非小説的な楽しさを小説というメディアに取り込むためには、小説はここまで変わらなければいけなかったし、逆に、Webという新たな場所を通じて、そこまで変わることができたことを、むしろ大いに評価すべきだと考えている。
 マンガの楽しさを、アニメの楽しさを、そしてゲームの楽しさを、どう小説にするかという不可能にも近い問いに多くの書き手が(時に無意識のまま)格闘し、そこから新たな表現を生み出してきたこと。それがライトノベルという小説ジャンルの力の源だと思っているからだ。

 もちろん、ライトノベルは単に受け手であるばかりではない。アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の成功のひとつの要因は、「一人称視点の語り」という極めて小説的な要素を、アニメに落とし込むことができたからだと考えている。
 メディアとメディアの交流の中で、新たな表現が生まれる現場に、幾度となく立ち会えたこと。平成の30年間、ライトノベルを読み続けて、もっとも幸福だったと思える理由のひとつが、それである。

(協力:海法紀光)


1. ↑ 私見では、『ゼロの使い魔』などの人気ファンタジー小説のSS(二次創作小説)などと並び、これらのオンラインRPGの日々のプレイをブログなので記したプレイ日記が、のちのファンタジー・ブームの源流のひとつだと考えている。MMO-RPGにおいてはレベルアップやアイテムの入手には一週間やそれ以上の膨大な時間がかかることが少なくないが、その毎日の淡々とした堀りや稼ぎを記録した日記が、読み物として成立し、多くの読者を獲得した、という事実が、前述した「RPGの延々レベル上げしてるだけの描写って面白いの、それ?」という疑問への答えの一つとなったのではないか、と思う。

2. ↑ 残念ながら評者は00年代以降のテーブルトークRPGには大変にうとく、以下は識者から伺った話であるが、一方平成初期のライトノベル・ファンタジーのブームの後、特に2000年代にテーブルトークRPGの分野で大きな存在感を示したのが、ファーイースト・アミューズメント・リサーチ(F.E.A.R.)だという。彼らの作品には、たとえば『ダブルクロス』シリーズのように(それまでとは逆に)、ライトノベルで流行していた異能バトルをいかにテーブルトークRPGに取り込むかという試みがなされていた。また、それぞれのキャラクターの人間関係が「能力」としてシステムに組み込まれるなどされており、また、同社製作のテーブルトークRPGの「リプレイ」は、ライトノベル文庫で刊行されて人気となったという。同社の作品では、ゲームとドラマをいかに共存させるか、ドラマをいかにシステムに組み込むかという試みが為されていたとも伺っている。おそらく今回の議論とも密接に繋がる部分があると思うし、それがゆえ評者の勉強不足が残念でならないが、今後是非、勉強させて頂きたい。

3. ↑ ただし、読者の皆様にお詫びしなければならないことに(謝ってばかりですまない)、評者はこうしたWeb小説に関しては、書籍化を通じての後追い組であり、以降の流れについてはざっとした概略を素描することしかできない。ゼロ年代のウェブ小説の歴史については、ぜひ、当事者の方、識者の方から、改めて何らかの形で詳しく語っていただきたいと思うし、可能なら、その力となれれば幸いある。

4. ↑ RPGの「ゲーム的な面白さ」を小説化する、という観点から見ると、近年のファンタジーが、現代の人間が異世界に転生/転移するという設定を多用する理由に、ファンタジーRPGのキャラクターのみならず、それを操作するプレイヤーの視点を必要とするから、というひとつの説明を与えることができると考える。
またここに、前史として矢野徹の「ウィザードリィ日記」や押井守の「注文の多い傭兵達」、そして前述のテーブルトークRPGの「リプレイ」などをくわえることで、「なろう小説」までのひとつの系譜を描くことも可能ではないかと思えるのだが、現在はひとまず仮説、というより妄想の域にとどまる。


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『ソードアート・オンライン1 アインクラッド』
著:川原 礫、イラスト:abec /電撃文庫(KADOKAWA)
謎の次世代MMO『ソードアート・オンライン(SAO)』の“真実”を知らずにログインした約一万人のユーザーと共に、その苛酷なデスバトルは幕を開けた。主人公・キリトは、ゲームの舞台となる巨大浮遊城『アインクラッド』で、ソロプレイヤーとして頭角をあらわしていった。最上階層到達を目指し、熾烈な冒険を単独で続けるキリトだったが、レイピアの名手・女流剣士アスナの強引な誘いによって彼女とコンビを組むことに。


*本記事は、2018年09月20日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。

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