物書きのための校正教室|逢坂千紘
はじめまして、翻訳者・校正者・小説家の逢坂千紘(あいさかちひろ)です。今回は、文字やことばをシビアに見直す「校正」という作業について、創作とからめて話したいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
私から伝えたいことはひとつです。原稿、キレイにしませんか?――たった、これだけです。
編集者に見せる企画書や原稿、そのままウェブなどを通じて読者に見せる作品、それをもっとキレイに仕上げることができたら、見るひとの反応も変わります。特にたくさんの原稿が送り込まれてくる「新人賞」というバトルフィールドでは、原稿の仕上がり具合が編集者の第一印象を左右すると言っても過言ではありません。
逆に「誤字・脱字・衍字(えんじ)」があまりにたくさんあると、この物書きさんはじぶんの作品を見直したのかな、と不安になることもあります。登場人物の「紗季子」が、途中から「紗紀子」になっていたこともありました。シンプルに、困ります。
そういった重要なミスを潰しておく。ついでに思い込んでいたことを見直して、じぶんの書いたものと向き合い直す。そこには必ず、新たな刺激、新たな発見、新たな探求があります。
校正のプロセスで生じる刺激や探求が、作品や創作にもたらす影響は少なくありません。むしろ私は、校正というのは、原石を磨くことだと思っています。
いきなり抽象的なことばかり言っていてもしょうがないので、ここでは「問題」に参加していただきたいです。私が作ったテキトーな文章を、ここが変だぞとか、ここはこうのほうがいいぞとか、いろいろじぶんなりにコメントしてもらいたいのです。
先に断っておくと、この問題に正解はありません。だけど、校正問題に取り組んでみることで、「ふだん文章というものにどう向き合っているか」の輪郭がすこし明確になります。それは創作に大きく生きてくるはずですので、ぜひチャレンジしてみてくださいね。
練習問題――以下の文章を校正してください
作業をはじめてから数時間が立ち、絵に描いた餅のようなくだらん原稿を仕上げて仕舞った。即かず離れずの距離から近所の子供達が、クラブ活動帰りなのか、大きな声で『ありがとうござました!』とがなり立てた。騒ぐは暴れるはの大移動が始まる。隣の家からは、動物番組のテレビでも観ているのか『かあさん、観て! 動物園の格好いいフミランゴだよ!』と聞こえてきた。うんざりして散歩でもしようと思って新しいズボンを履き、玄関まで行ったが、昨日購入したゴッホの『ヒワマリ』のレプリカントが床から天上までのスペースを埋めており邪魔をして外に出れない。無理に動かして内装を傷つけ罰金を課されても嫌だ。仕様が無いので一昨日の夜食に食べた小龍包を腹に落とす。食当たりが気にならないわけではないが、先日の人間ドッグでは健康体だと言われたのですぐに不安を拭い去った。矢張り私としては風流を楽しむため、秋の本郷が紅葉に染まっている様相を眼に焼き付きたかったのだが止む終えない。新しいギブスを手に入れるため、丸ノ内線の四ッ谷駅にも行きたかった。さらに言えば、野球でも観るため後楽園にでも足を運びたかったと言える。
やることは「まちがいを正す」「まちがいとは言えないが微妙なところを確認する」「別の表記を提案する」ことです。決して「内容がつまらない」などと言ってはなりません。文字とことばに着目してみてください。
逆に言えば、おもしろい作品でもおもしろがっていたら校正はできません。作者のことは見ない、作品の魅力も見ない、文字とことばだけを見るのが校正というプロセスです。
そして大事なのは、理由説明。ひとつひとつの理由を考えることです。
①なぜその個所が正されるべきなのか。
②なぜその個所が確認されるべきなのか。
③なぜその個所が提案を受けるべきなのか。
なぜなのかをしっかり明記することを欠かさないようにしてください。それを伝えるのです。正解がないので、「確認したい理由はわからないけど確認します」ではコミュニケーションがとれません。見直すこともできません。
ときどき編集者のなかにも「校正者はこう言ってますが、私はママ(そのまま)でいいと思う」とだけ書き添えるひとがいます。これでは見直せないんですね。単なるボトルネックというか、コミュニケーションが停止してしまいます。
疑問を見つける、その理由を考える、それを言語化する、それを伝える、それを受け取る、それを飲み込む、それを再解釈する、そこに答えを見つける。そのプロセスで作品を守ったり、創作に探求を与えたり、そういったプラスのエフェクトが生じるものだと思います。原石は磨かれるのです。
「正解」がないのが校正
それでは長くなりましたが、私の回答を記してまりいます。繰り返しますが、あくまで私が(しつこいテイストで)校正するなら、という観点であり、正解でもなければ大ベテランのスペシャル校正というわけでもありません。ご了承くださいませ。
「数時間が立つ」
ここは変に難度のたかいところかもしれません。
時間が経過するときに「たつ」を用いますが、「経つ」は常用漢字外です。それゆえ検定教科書や新聞などでは「たつ」と表記します――たとえば相模原襲撃事件の見出しに「一年たっても悔しい」とありました。
『広辞苑』では「経つ」が空見出しになっており、「立つ」をつけております。そのほかの主要な辞書では「経つは立つとおなじ語源」のような書きかたが目立ちました。
規範的な国語をめざすのであれば、ここはひらがなの「たつ」になるのでしょうか。ただ、常用漢字にしばられる必要はないので「経つ」も問題ありません。おなじく「立つ」もよいでしょう。私はけっこう「立つ」が好きです。
校正:「立つ」でも誤りではありませんがあまり一般的ではありません。「経つ」は常用漢字外。開きますか? 念のため。
「開く」とは、校正で漢字表記をひらがなに変更すること。実際はこんな丁寧に書かず、
「たつ or 経つ?」※経つは常用外 念のため
このようなテイストにします。ただ、ふつうの校正時ではママ(そのまま)にします。疑問に出すことで作家さんや編集者さんの時間を奪うわけですから、余計な疑問を出さないのも仕事では重要です。
これは余談ですが、「たつ」という多義語のイメージは「直立運動」です。立ち上がるというのが基本にあり、そこから移動のニュアンスをつけて「発つ」になり、時間経過のニュアンスで「経つ」になります。
ほかにも直立というイメージから「建築物が建つ」「鳥肌が立つ」「腹が立つ」、直立することで立派になるイメージから「弁が立つ」「腕がたつ」「見通しが立つ」、直立してひとつの場所を得ることから「苦境に立つ」「打席に立つ」「舞台に立つ」「岐路に立つ」「優位に立つ」、移動のニュアンスを派生させて『つながっていたものを離す』というイメージにして、「退路を断つ」「関係を絶つ」「命を絶つ」「生地を裁つ」など多岐に亘ります。
「絵に描いた餅」
もともとの中国古典(『三国志』)では「画餅(がべい)」なので、できれば読み下して「絵に画いた餅」としたいところです。ただ、流通している表記ですし、漢字の用字法にこだわる理由も特にないかなと思います。白居易も「畫餅尚書不救飢」と記しているので、表記としてはいろいろあってもいいのかなと感じます。
これをわざわざ問題に出したのは、「画く」にこだわる校正者さんがいるからです。校正のプロフェッショナルに疑問を出されると、ついつい言いなりになってしまいます。ただ、それだとあまり意味がないように思えるので、物書きさんはじぶんの意志をしっかり表明してください、ということが言いたかったのです。
校正:もとは「画餅」で「画く」がオリジナルですが、「描く」でも問題ありません。念のため。
ちなみにこの故事は、「地元で有名な政治家を中央にあつめても実務(たとえば軍事)ができないから絵に画いた餅のように食えない(価値がない)、採用しても無駄になる」ぐらいの意味です。
「絶対にまちがえないだろう」というところこそ慎重に
解説ポイントの数が多いので、スピード上げていきますね。
「仕上げて仕舞った」
ことばあそびかな、と迷うところです。「しまう」は補助動詞なので、できれば開きたいです。見た目のリズムが失われるなら、わざわざ変えなくてもいいかなとも思います。
「即かず離れず」
「不離不即」の読み下しなので、ほんとうはこれでいいのですが、「付かず離れず」のほうが一般的ですね。
「子供達」
「こども」や「子ども」と表記するのが推奨されております。「達」はタツと読むとき(達成・到達)だけ漢字にするのが推奨されております。ママでも問題ないのでママの場合がほとんどです。
「ありがとうござました!」
脱字、「ありがとうございました」。もしかしたら、著者にとっては「ありがとうござました」に聞こえた可能性もあるので、やわらかく指摘したいところです。
校正をやってまず最初におどろくのは、こういった「絶対にまちがえないだろう」というところにこそ大きなミスが潜んでいるということです。特に、大見出しとか、何回も出てくる専門用語、商品名などなど。
ドラマ『校閲ガール』でも、表紙の「POCKET」が「POKET」になっているミスを見逃し、校閲部みんなで暗い顔して訂正シールを貼るシーンがありました。(実際の現場では、表紙はいろいろな部署のいろいろな人が確認するため、ああいったことはあまりないかなという印象です)
ちなみに私の著作『ようこそ哲学メイド喫茶ソファンディへ』でも、決め台詞のなかに誤表記があります……うっ……。
「騒ぐは暴れるは」
「AするわBするわ」です。助詞の用法ですね。さらーっと読んでいると絶対に見逃すポイントです。
「動物番組のテレビでも観て」
「番組」と「テレビ」がおなじような意味合いで使われているので、どちらかなくてもいいかなと感じます。でも、音や見た目のリズムが崩れるときはママにします。
「フミランゴだよ!」
フラミンゴです。どうも最初の文字と最後の文字さえあっていれば、あいだがひっくり返っていても読めてしまうそうですね。
「ズボンを履き」
ズボンは「穿く」のほうがよいです。「履く」は通例、靴に用いるものですので。
余談ですが、共同通信社の記者や校正者が準拠する『記者ハンドブック』では、「履く」が漢字、「穿く」がひらがななので、「靴下をはいたまま靴を履いてフィット感を確かめよう」となります。
「ヒワマリ」
ヒマワリです……笑
「レプリカント」
『ブレード・ランナー』の造語で、人間のレプリカ(人造人間)のことです。レプリカが語源ですが、違和感があるので確認したいですね。
「床から天上まで」
天井です。意味が通ってる感バリバリの誤変換は、ついつい読み流してしまいがちです。ほかにも「優秀の美を飾る」「停止する所を知らない」「底を尽く」「衆人監視」「人事移動」など山ほどあります。
「外に出れない」
規範的な国語では「出られない」ですね。いわゆるら抜きです。
「罰金を課されても」
罰金は科されるものです。課す=義務を負わせる、科す=刑罰やペナルティを与える。
「仕様が無い」
問題ありませんが、「仕」は「する」の当て字です。する方法や手段が無いことを意味します。江戸時代には「性がない」という当て字もあったようですね。
「一昨日の夜食に食べた小龍包を腹に落とす」
夜食に食べる、でやや見た目の重複があります。「夜に食べた」でも問題ないかと思われますが、そこは作家さん次第です。また文脈でわかりますが、「食べ残した」などのニュアンスをつけたほうがわかりやすそうです。
「小龍包」は誤表記。「小籠包」が正しいです。異字体で「小篭包」もあるようですね。
「腹に落とす」は、なんとなくわかりますが独特な感じもします。私ならママです。
「食当たり」
本来は「食中り」なのですが、圧倒的に「食当たり」が人気です。心のなかでは「伝わるから別にいいんだけどなあ」と思いながら、やはり出すべきポイントなので作家さんにお伝えします。
「人間ドッグ」
dock(ドック)です。ドッグは犬。ワンワン。似たようなもので、「東京ビックサイト」「ビッグカメラ」などがあります。先日は「ベットで寝る」というのも見かけました。
「矢張り」
当て字です。やはり当て字だったか、と思ったかたもいるかもしれませんね。開くのが推奨されております。私は漢字を連続で用いるのがあまり好きではないので、矢張りだけではなく「見失う」とか「見誤る」などけっこう苦手です。
本郷、四ツ谷、後楽園……地名から得られる情報は
「秋の本郷が紅葉に」
これは些末な難問です(重箱の隅をつつく、というやつです)。
いちおう解説すると、本郷であればイチョウであろうという推測から「黄葉」を提案します。紅葉は「もみじ」の意味が強いからですね。
「眼に焼き付きたかった」
問題はありませんが、「眼」は器官・機能としての意味合いです。焼き付けるという動詞と併用すると手術なのかな、という感じもしてしまいます。
「焼き付け」たかったですね。活用の部分です。
「止む終えない」
「やむを得ない」です。こういった変換ミスもやむを得ません。
さらに頻出なのが「せざる負えない」です。「手に負えない」「始末に負えない」があるので、「せざる負えない」を見逃しやすいのでしょう。
「ギブス」
ギプス(Gips)です。ドイツ語ですから音がききとれなくて「ギブス」という表記が混入した可能性もあります。それにギブスのほうが浸透している感じもありますね。いちおう校正者としては「Gips(ギプス)ですが大丈夫でしょうか、念のため」くらい言いたいです。
「丸ノ内線の四ッ谷駅」
こちらも上級。丸ノ内線のヨツヤ駅は、「四ツ谷駅」です。もともと新宿の地名で「四谷」があり、ヨンヤと読まれないようにしたのか「ツ」をいれたようです。地名をとった駅名で「四谷三丁目」という駅もあります。JRが「四ッ谷」駅です。
なんでそんな面倒なことになるのかと言えば、同じ駅名を作らないようにしているからだと思われます。東京の「新小金井駅」も、栃木に「小金井駅」があるので、「新」になったわけです。他にも「東小金井駅」や「武蔵小金井駅」など、がんばってバリエーションを作っています。
さらに余談ですが、JRは旧国名でバリエーションすることが多く、先の「武蔵小金井」も武蔵国をとったものだと言われています。ほかにも「伊勢~駅」「三河~駅」「常陸~駅」「羽前~駅」「豊後~駅」などがたくさんあります。
「さらに言えば、野球でも観るため後楽園にでも足を運びたかったと言える」
「さらに言えば~言える」はやや重言のようです。読みやすさを考えて指摘したいところです。
後楽園は、文脈で「後楽園駅」のことだとわかりますが、後楽園球場のことかと思うひともいるかもしれないので、いちおう確認しておきたいところです。もう後楽園球場はありませんからね(いまは東京ドームです)。
重要なのは「原石を磨く」工程があること
やってみていかがでしたか、もっと指摘できる部分はありそうですね。大きすぎるゴッホの絵とか、表記ゆれとか。
今回はお遊びなので変なものもいろいろ出しましたが、肝心なことはクオリティアップです。ネガティブチェックではありません。知識を披露することでもありません。原石を磨ける仕事(工程)があるということです。見直すなかで、作品と向き合い直すことができると私は信じています。
そんなに重たく感じなくてもよくて、間違い探しみたいなものでもいいです。原稿の仕上げ、クオリティアップ、そのために校正というものがあると知っていただけたら、とても嬉しいです。
*本記事は、2018年05月01日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。