社会の問題を(個人ではなく)社会に返すためのことば|逢坂千紘
こんにちは、あいさかちひろです。
これまでのテクニカルなテーマから一転して、「当事者と非当事者のことば」という現代的かつピンポイントなテーマをいただきました。話したいことは山ほどありますが、この記事のなかでどこまで書けるのか、あるいは相談者の羊崎さんとどこまで一緒にいけるのか、ひとつの挑戦になるかもしれません。
ふたつにひとつというシンプルな世界観のほころび
今月の相談者:羊崎ミサキ
お悩み:逢坂さんこんにちは。
最近私は非当事者の語ることばの軽さについて考えています。
アングロサクソン系の人が語るBlack Lives Matterや、男性が語るフェミニズムのことばは、どこか上すべりしていて空虚で、無意味どころか気づかないうちに有害さを含んでいるのではないかと思えてしまうようになりました。
非当事者の語ることばの正当性を担保してくれるものはどこにもありません。そう考えると、誰かに声を届けたくても、非当事者であるがゆえにそのことばは軽く、加害性すら含んでいるのではないかと思ってしまいます。
逢坂さんは、非当事者の語ることばについてどう思われますか?
ご相談ありがとうございます。当事者と非当事者に分けたとき、非当事者のことばは空っぽに感じられて、滑っているようにみえてどこか軽く、時には害になることもあるのではないかと思えてならないとのこと。私もおなじようなことを自他に対して感じることがあります。
私は、産まれたときに担当医が外性器を見つけた結果、「男」チームに割り当てられました。
その分類に従って、身分証の「男性 / MEN」にチェックをつけたり、ランドセルを黒色にしたり、男子トイレに入ったり、メンズ服を着たり、そういう社会的行為を実践しています。親も納得している様子です。それが社会のつくりかたなんですね。
一方で、姉のおさがりの服を着て、姉の乗ってた赤ピンクの自転車に乗り、女の子と間違えられるほどロングヘアな子どもでした。母子家庭で母と姉に囲まれて育ち、五年に一回くらい男の子から恋愛的なアプローチを受けてきました。これを書いているいまのファッションは部分的にレディースを採用しています。友人の「女子会」に呼ばれることもあります。女性向けとされているコンテンツに抵抗感は全くありません。男女の恋愛物語ではどちらにも共感できます。
とはいえ、男子トイレに入ることの違和感はなくて、英語では「he/him」を使います。男性社会の構造的な恩恵を受けています(安全性や収入、活躍機会など)。いまも私がまだ気づいていない女性差別があるはずです。
ステレオタイプに茶化すテレビのタレントに傷ついたことはあまりなく、政治家の無頓着な発言に(怒りこそあるけれど)死がよぎった切迫的な経験はありません。その特権性とは別に、ホモソーシャルというか、男同士の絆の強要、下ネタの掛け合い、チキンレース、容姿のジャッジ大会、恋愛のトロフィー化などに付き合うのは非常にしんどく、逃げられない状況でなんとか適用しているじぶんを演じているときは絶望を感じて死にたくなります(人狼をしているときのように心を殺したり心の底で見下したり死なないような訓練もたくさんしました)。
おそらく羊崎さんにSOGIE(性的指向・性自認・性表現)の解説は不要でしょうけれど、女か男のふたつにひとつというシンプルな世界観はすこしずつほころびを見せつつあるでしょう。
「介入するのに理解しない」ポーズが生み出すもの
なぜこの話をしたかというと、どっちかしかないという区別の発想(二元論)にひとつひとつケリをつけていったさきにしか、羊崎さんの嘆きにも似た問いかけの答えがないと思ったからです。
たとえば、「アングロサクソン系の人が語るBlack Lives Matter」というふうに書いてくださいました。おそらく人種問題になっているから人種の話をしてくださったのだと思いますが、BLMの文脈ではよく「人種差別主義者じゃないってだけでは不十分、アンチ人種差別主義者にならなければならない it is not enough to be non-racist, we must be anti-racist」というふうに言われます。「私は人種に対して中立ですよ、肌の色はさまざまなので差別しませんよ」というポーズをとるひとたちへの、非当事者への、鋭い誘い文句ですね。
ポーズだけだとことばは軽くなっていくものです。人種という強烈な割り当てをこれからも認めるかどうか、そもそも「人種」ということばを信じるかどうかが問われているときに、人種の区別はいろいろだよねと言っても仕様がないわけですから。
羊崎さんの感じていらっしゃる「有害」「加害性」というのも、このあたりの「介入するのに理解しない」というポーズだけで自己完結したことばが生み出す失望感や外傷性のことを言い当てているのかと思います。
ことばの軽さをどうにかするのだとすれば、「悪用されている区別に対して中立であること」の安全地帯から抜け出さないといけないのではないかと感じています。そういう意味では「人種ってことばをなくせばOK」というアイデアも物足りないでしょう。
「ことばの軽さ」の使い途
一方で、「ことばの軽さ」が歩める別の道もあるはずです。
まず、当事者が変えられること変えられないこと、非当事者が変えられること変えられないこと、この四つの面があると思います。
「非当事者が変えられること」のひとつに、実行性のある言説の軽量化というのがあると思います。
大前提として、当事者の経験からくる重大なことばは絶対に欠かせないし、その語りは絶対に守らねばならないし、絶対に奪ってはいけないものです。一方で、それだけだと行き詰まったり届かなかったりすることもあります。
このあたりはほんとうにむずかしいですが、羊崎さんが例に挙げてくれた「男性が語るフェミニズム」から考えるとすれば、男性優位社会を変えるのはほかでもない男性たちです。だけど現状では女性たちの正統な語りが遠くに届かなかったり、女性間でもおおきな誤解があったりなど、コミュニティの外にじゅうぶんに伝わらなかったりしているという現状もあります。
男が男にフェミニズムの話をするときに、(ほんとうは重大な話からしたいところですが)すこし軽量化してリラックスした言説から入るとよいこともあります。たとえば「妻(恋人・女友だち)に気付かされたことなんだけどさ」みたいな切り口で、無意識に強化していたステレオタイプの話をすることもできるし、そこから言説のレンジに質的な変化があると思います。
もちろんそれを聞いた当事者が「なにを今更……」とふたたび傷つくこともあるでしょう。あるいは、男性がじぶんの利益やポジションのためにフェミニズムの言説を利用していると察したときもいたたまれないでしょう。
つよい男の免罪符にされることもあり得るし、一枚岩ではないところを「男性フェミニストが一刀両断」的なノリにがっかりすることもあるかもしれません。「軽さ」を利用するうえで、望ましいありかた、そうではないかたちというのはあらためて整備されるべきだと思います。
ことばにひたりつく非当事者、アップデートとは
非当事者のことばとして、最後に「アップデートせよ」というスローガンについて触れていきたいと思います。
ITエンジニアのWard Cunninghamという人物が提唱している「負債 debt」というメタファーの話を援用すると、日々得られる知識、知見、理解とじぶんたちのつくっているものが乖離していくことを「負債」と呼びます。負債と聞くと一般的にネガティブなイメージかもしれませんが、この場合はポジティブな意味です。
知識をアップデートするのも大事ですが、それだけでは深い洞察に向かいづらいものです。Ward Cunninghamは「リファクタリング」が負債の解消につながると言います。社会というものを維持しながら、内部構造を書き換えたり、バグの入る余地が減るように統制したりする必要があるので、「負債」とともに社会のよりコアなところ、より複雑なところに向かって行くことになります。
より差別のない社会や表現というコア、その複雑性、そこに向かっていくためのアップデートやリファクタリングの重要性を強調したいです。大きく言えば、社会の問題を(個人ではなく)社会に返すためのことばを非当事者でも生み出せるということです。
さいごに、アライシップのある物書きという選択肢
羊崎さんの相談から感じたことは、物書きとしての選択肢のなさ、閉塞感、行き止まり感でした。なので、私から最後に提案したいのは「アライシップのある物書き」という道です。
アライ(ally)というのは、社会で周縁化されているひとたちを支援するひとのことです。『The Guide to Allyship』という記事に、ベースとなる七箇条が書いてあるので引用します。
1. Take on the struggle as your own.
2. Transfer the benefits of your privilege to those who lack it.
3. Amplify voices of the oppressed before your own.
4. Acknowledge that even though you feel pain, the conversation is not about you.
5. Stand up, even when you feel scared.
6. Own your mistakes and de-center yourself.
7. Understand that your education is up to you and no one else.
「Take on the struggle as your own(じぶんに降りかかっていることとして奮闘する)」とか「Transfer the benefits of your privilege to those who lack it(じぶんの特権の利益を持たないひとに移行する)」とか、非常に大事なことが書いてあります。
それを踏まえたうえで、三番目の「Amplify voices of the oppressed before your own(じぶんのことに先立って抑圧されているひとの声をひろげる)」について。たとえ非当事者だとしても、アライとして、アライシップのある物書きとして、当事者の声を社会全体に届けて、社会の問題を社会に返すことができると思います。
(タイトルカット:西島大介)
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