「センス」って何ですか?|王谷 晶
えーアタシら物書きに必要なものと言いましたらまずは何はなくとも筆記用具でございますな。筆に硯、万年筆に原稿用紙、昨今じゃパショコンなんてぇハイカラなものを使う作家さんも多ござんすね。次に大切なのがそう、これ、こうやってトントンと音を出したり蕎麦をたぐったり、パチッと開いて扇いだり……というわけで毎度ばかばかしいお笑いを一席、王谷晶である。
センスとは選択肢の発見力
今回のお題は「センス」。小説の話に限らずこれに苦しめられてきた者は多い。第一にこいつは数値化できない。可視化もまあできない。しかし歴然と「ある」ということになっている。見えずとも匂う屁のような概念、それがセンスだ。
私は高校時代セーラー服に指ぬきグローブとバンダナを装備して通学していた超ハイセンス人間なので死後おしゃれ天国に迎えられることが決定しているが、今回はセンスに自信のない諸君のためにも、この概念を物書きの立場から解き明かしていきたいと思う。
と大上段に構えておいてなんだが、このセンスというやつぁまことにやっかいなのである。先に言ったとおり明確な基準もなければ正解もない。去年褒められたセンスが今年にはダサくなっていたりもする。
仕事や課題で「なんかさあ、センスが違うんだよねセンスが」と具体性のグの字もないダメ出しをされて上司や先生の頭を鉄扇でカチ割りたくなった者も多かろう。「つまりセンスって何なんだよ?! センスないやつはどうやって鍛えりゃいいわけ?!」わかる。わかるぞその叫び。私も何百何千回とシャウトしてきた。
センスとはなんぞや。困ったときの国語辞書。曰く「物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。(by大辞林)」とのことだが、どうもこの説明も具体性に欠ける。そこで私は、センスとは選択肢の発見力にあるのではないかという仮説を立てた。選択肢の選び方ではなくその前段階、どこにどのような選択肢があるか見つけることができる能力、それがセンスの本丸なのではないだろうか。
何回でも言うけど、インプットが大切って話
例えばスーパーなどで「カレーセット」と称して玉ねぎ・じゃがいも・にんじんが一緒に売られていることがある。料理のセンスが無ければそれを買って作れるのはカレーだけだが、センスがあれば、3種の野菜から多種多様なレシピを考え出すことができる。その上で、その日に食べるベストな料理を作ることができる。それがセンスだ。つまり、知識探究心欲望そして経験の合わさったものだ。一品を選び出す前の、選択肢をいかに考えつくか、知っているか、見えているかというところからセンスは始まっている。
これを物書きの作業に応用すると、広く世界を識り、多種多様な人の立場に思いを馳せ、本を読みニュースを見、人と会い話し、たくさんの情報を取り入れた上で、ひとつの物語を作る。つまり、インプットが大切という話になる。「またその話かよ?!」そうです。またその話なんである。
基本的にこの連載は「世の中には何の定石にも当てはまらない生まれながらの麒麟児・天才がいる。それはそれとして私と諸君はその他の凡人である。凡人いかにして物書きの人生をサヴァイヴするか」という視点から書いている。
麒麟児は本稿読まんでももう一人でバカスカ書いて一人で世に出ている。私はそういう天才たちに何かアドバイスできる立場ではまったくない。凡々バカボンである。さりとて我々凡愚にも夢や目標はある。それに漕ぎ出すために必要なのが、練習とか勉強とか取材とか思索や実験とかの地味ぃな作業なのだ。結局は。この地味な作業が楽しいと思えるようになってきてからが物書きの本番だ。
センスと個性が磨くために現状を知れ
もうちょっと具体的な話をすると、小説においてセンスが取り沙汰されることが多いのは、時代性と若者描写だ。私は以前70代の作者が書いた「30代前半都内在住横文字職業独身男性の恋愛物語」を仕事で読んだことがあるが、その主人公の男性はどんなに若く見積もっても50代後半の趣味趣向と知識と喋り方をしていた。私(チョベリバ世代)も最近「今の女子高生は”超”を使わない」と聞き大いに驚いたので他人事ではない。
つまりインプットや取材を怠り、働き盛りの男も女子高生も自分がその世代だった頃の知識のままで書いてしまうと、失笑もんの時代遅れでダサい語が出来てしまうのだ。その他、環境問題や経済問題、各国情勢、家族観とか性差別問題とか労働環境などは、それに対する人々の感覚も含め日々めまぐるしく変化している。その最新の情報をすべて小説の中に取り入れるかどうかは各人の”センス”によるが、ともかく現状を知っていなければ、選ぶことも捨てることも変えることもできない。
個性を磨きたければ汎用の何たるかを知らなければならない。でないと、頭の中だけで一生懸命作り上げた”個性的”なものが、とうに誰かがやってたことだったりみんな知ってるものだったりする悲劇に見舞われるからだ。大丈夫、インプットは楽しい。「よくあるもの、古典的なもの、流行ってるもの、身近なもの」を知れば知るほど、物書きは誰にも代えがたいセンスを身につけていくからだ。
最初に始めた人のセンスは古びない
今月のおすすめ本は伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』。1965年に初版が出たロングセラー本である。諸君の中には自分どころか親も生まれていなかった者もおろう。
本書はエッセイ、すなわち「口語調で時事ネタや作者の個人的なエピソードなどをふんだんに交えた軽妙な随筆」の始祖的な本なのだ。さらに挿絵も著者本人が描いているのでイラスト・エッセイのはしりでもある。
どんな物事でも最初に始めた人というのは凄い。イノベーターであり革命家であり、つまりセンスが飛び抜けている。また、本書はまさにさまざまな事象の「センス」について語られた一冊なので今回のお題にぴったりなのだ。1ポンド1008円の固定相場時代にヨーロッパ各地を飛び回った著者の非常にキザな話が満載なのだが、不思議とイヤミではない。さらに今から半世紀以上前の話なのに、不思議と古臭さを感じない。この「不思議と」を支えるのが、センスというやつなのだろう。
(タイトルカット:16号)
今月のおもしろい作品:『ヨーロッパ退屈日記』
著:伊丹十三 新潮社(新潮社文庫)
1961年、俳優としてヨーロッパに長期滞在した著者は、語学力と幅広い教養を武器に、当地での見聞を洒脱な文体で綴り始めた。
上質のユーモアと、見識という名の背骨を通した文章は、戦後日本に初めて登場した本格的な「エッセイ」だった。
*本記事は、2019年10月10日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。