「世界観」って何ですか?|王谷 晶
雨音は初版の調べ……王谷晶である。いきなりだが諸君はもう『アベンジャーズ/エンドゲーム』は観たか。
マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)一作目である『アイアンマン』(08)から11年間、関連作は全て劇場で鑑賞してきた身としては感無量以外の言葉の出ない堂々たるシリーズ最終作であった。
ところでアベンジャーズシリーズはいわゆる「アメコミ・ヒーロー映画」である。北欧神話の神からパワードスーツを着た大富豪、特殊な血清によって生まれた超人など、現実離れしたヒーローたちが現代の地球で活躍する世界だ。
「設定」と「世界観」は別物
というわけで、今回は「世界観」のお話である。まず一番ややこしくなりがちなところを解しておくが、「設定」と「世界観」は似て非なる別物である。
上記の「大勢のスーパーヒーローが現代の一般人と共に生活している」という「設定」でも、その状況を作者がどう見るかによって話は変わってくる。この「見方」が世界観だ。
例えば超強いヒーローたちが悪から地球を守ってくれるのを頼もしく希望がある世界と見るか、人智を超えた暴力装置が跋扈する恐怖の世界と見るかで、同じ設定でもストーリーやキャラクターはがらっと変わる。この双方の視点をミックスしてもいい。それぞれ全く別の物語が生まれるだろう。
設定がミクロを積み上げて世界を構築する実務だとすると、世界観はマクロな視点で物語の来し方行く末を見通すヴィジョンだ。この2つは相互に作用し合うが、どっちかに比重が偏りすぎても物語はうまく走らない。
衣食住から言語まで緻密に作り上げても、その世界が物語の中でどう変化していく(またはしない)のか、そこで誰が何をどう考え行動していくのかを考えないと、世界はただの箱庭になってしまうし、ヴィジョンだけあっても細部の作り込みがテキトーだと説得力が無くなる。
テーマをひっくり返して突き回して一緒に風呂に入って抱いて寝る
また、壮大な世界観、独特の世界観というとファンタジー大作や突飛な物語を思い浮かべるかもしれないが、設定は地味でも、その世界の見方によって誰も見たことのない物語を生み出すことはできる。
前回に引き続きまた映画祭の話になるが、カンヌ国際映画祭には「ある視点」という部門がある。日本からだと黒沢清監督や深田晃司監督も受賞したことがあり、「あらゆる種類のヴィジョンやスタイルをもつ、『独自で特異な』作品群が提供(Wikipediaより)」される部門だ。
ここに出品される作品はファンタジックなものもあるが、ほとんどが市井に生きる人々の姿を描いている。それでも、いずれも非常に個性的で見たことのない物語に溢れているのだ。
独自の世界観とは、変わった設定や派手な物語のことだけではなく、その作者にしか見えない視点を描くことで生まれる。
作品のテーマにしたい題材や気になる物事をひたすらよく観察して読み込んで、さらにそこで得た知識を「本当にそうなのか?」と疑い、ひっくり返して突き回して一緒に風呂に入って抱いて寝るくらいしっかり組み合った果てに、その人にだけ見える、感じられる世界というのが生まれてくる。
「鋭い感性」は才能じゃない
「感性が鋭い」「個性的な世界観を持っている」と評されるクリエイターは多いが、その鋭さも個性も魔法ではない。
小説に限らず、ことクリエイター業というのはなぜか「才能という天から授かった魔法のような能力が存在し、それを持っている特殊な人が労せず魔法を使って作品を作る」みたいなファンタジックな言説が付き纏う。そういう凄い人が居ないとは言わない。
並外れた天才というのはどのジャンルにも存在する。が、しかしやっぱりどんなに涼しい顔で作品をぱぱっと創り上げているように見える人でも、その「ぱぱっと」に至るまでには膨大なインプットと思考と試行錯誤の積み重ねがあるのだ。
「ぱっと思い浮かんだ」ように感じるアイデアでも、それが思い浮かぶためのトリガーや燃料というのは、その人がそれまで見聞きし読み体験してきたこと。つまり独自の世界観を生み出しコントロールするためにも、結局はインプットがだいじということなのでした。
忙しい中で本を読んだり映画を観たりするのは確かに大変だが、インプット量が多い人はほんとに息を吸うようにそれをこなしている。
今はスマホで本も漫画も映画も音楽もなんでも持ち運べるので、スキマ時間でのインプットは昔よりやりやすくなってるはずなのだ。さらに自分の興味があるものだけ摂取していても脳みそが凝り固まってしまうので、あえてぜんぜん知らないジャンルの本を読んでみるとか、そういう遊びも物書きには必要なものだと思う。
常におのれの感性に刺激を与え続けることで、揺るぎなく個性的な物語世界というのは生み出されると私は信じている。
少しも何が起こっているのかわからない怪作
今回のおもしろ本はアメコミではなく日本の漫画、ながいけん著『第三世界の長井』。現在4巻まで発売されているが、実は打ち切り未完となっており5巻の発売は現時点で未定となっている。
最終話もとんでもない所で終わりになっていてほんとに完結していないのだが、でもいま創作における「世界観」「設定」を語るにあたって、決して避けては通れぬ巨大な碑石のような作品なのだこれは。
例によってあらすじを紹介したいのだが……できない。メタフィクション、不条理SF、シュールギャグ……本作を形容しようとするとこのへんの言葉が出てくるが、とてもそれだけでは説明ができない。「わかりやすい」が是とされやすい商業エンタメ界において、コミックス1巻まるまる読んでも少しも何が起こっていて何がやりたいのか「わからない」というピーキーな作品である。
そのうえ古今東西のサブカルチャーのパロディや哲学、宗教などの要素が大量にブチ込まれ、元ネタを知らない読者をマッハで置き去りにしていく。それでもなんとか輪郭を掴もうとするならば、これは「創作者」とその生み出した「世界」とが切り結ぶガチンコ勝負の記録なのだ。
ギャグ漫画の体裁ではあるが、「物語を創ること」そのものについて描かれている。
あとぜんぜんわからないのにそれでも読ませられてしまうネームの力が凄い。創作家必読の書と言えよう。
(タイトルカット:16号)
今月のおもしろい作品:『第三世界の長井』
著:ながいけん 小学館(ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)
人は何故、人たり得ているのか。
人間社会とは何なのか。
神は存在するのか。
真実など、この世にあるのか――――
ながいけんが紡ぐ新世界。
*本記事は、2019年06月13日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。