第10話|私は桐生なぎ。主婦作家だ。|梶原 りさ
前回までのあらすじ:
夫の反対にあったもの、書籍化を目指して動き出したなぎ。編集のプロと自分の作品について話し合ううちに、夫は家事育児の心配ではなく、ただ書籍化が気に入らないだけだったのではないか..と思うようになる.。なぎは夫に何も言わずに小説を書いて出版する決意を固めた。
いいお知らせ
決断してしまえばあとは早い。私は、使える時間のめいいっぱいを書籍化作業に費やした。
幸い、環境は味方をしてくれた。あとから聞いてみると、梅田さんも小学校に上がったばかりのお子さんを育てていたし、担当編集の竹原さんも育休から復帰したばかりだという。カリンの体調不良での打ち合わせの日程変更など、親身になって対応してくれた。
ママ友のユキ・マナミ・レイナも、作業の大詰めのときはカリンを預かってくれた。カリンは、友達と長く遊べて楽しそう。夫の帰りは相変わらず遅く、私の作家活動はあっけないほど気づかれずに進んでいった。
「ついに校了ですね!」
web会議アプリの画面越しに星空出版担当編集の竹原さん、オールスターの梅田さんが拍手をした。
「ありがとうございます、ほんとうに皆さんのおかげです…」
「桐生さんの作品を見つけたとき、ピンときたんですよ、これはかなり面白いぞ、絶対に書籍化したいって。他社の賞の受賞を逃したとき、チャンス!と思ってすぐ梅田さんにご連絡したんですよね」
「竹原さん、ほんとすぐ連絡きたからびっくりしました。スナイパーのような身のこなしですよね」
竹原さんは、動画に映らないぐらいのすばやい手の動きをしながら熱弁する。
「さささっ、さっ、ですよ! ほかに取られる前に、すぐに!」
オールスター由来の書籍化作品が多い竹原さんは、梅田さんと以前からよく連絡をとっているようで、二人の会話はいつも息ぴったりだ。
「さて、今日は桐生さんにいいお知らせがあります」
竹原さんと梅田さんは、示し合わせたようににこにこしている。
「それは……」
そして、発売日
「この世には、主婦にしか見えないものがある」
『京都やおよろずレストラン』櫻川ゆら先生絶賛!
専業主婦が、地元ファミレスで安楽椅子探偵!?
櫻川先生のコメントが書いてある帯が、私の本に巻かれている。
竹原さんと梅田さんが仕込んだサプライズは、櫻川先生による帯コメントだった。櫻川先生の担当でもある梅田さんがお願いしてくれたそうだ。「デビュー作からヒット作家さんのコメントをもらえるなんて、すごいですよ!」と、竹原さんは営業部に掛け合って部数を増やす交渉までしてくれた。
私の本は、発売日の一週間ほど前に送られてきた。
「同じ本が何冊も……どこに隠そうかな」そう独り言を言いながら封を開けて実物を見た瞬間、涙がこぼれた。
帯に書いてある言葉には、私と櫻川先生にしかわからない裏の意味がある。
「主婦とか、女とか、そういうくくりは関係ない。あなたの中にある物語を、視点を、ありふれたものだ、小さなものだと卑下しないでほしいの」
あの時、背中を押してくれた櫻川先生の言葉。
ただの主婦だから、仕事をしていないから、夫の収入に頼っているから……そんな風に私は自分を卑下していた。夫に「仕事なんてできるわけないよ」と言われても、言い返せないぐらいに。
「カリンちゃんママ」としか呼ばれない毎日の中、いつしか、自分が自分であることすら希薄になっていた。
でも、違うんだ。
主婦ならではの、この目を、この言葉を、私は誇っていこう。
私は桐生なぎ。主婦作家だ。
重版がかかりそうだけど、不安なのは……
きっかけは、櫻川先生のツイートだった。
「今年読んだ中で一番面白かった作品」として購入リンクつきで紹介された私の本は、櫻川先生の読者の間で話題になった。購入者の中にはオールスター掲載の原作まで読みに来てくれる人もいた。「櫻川先生のおすすめツイートから読みに来ました」から始まる感想群を読んでいると、担当編集の竹原さんから電話があった。「桐生さん、本、売れてますよ! 重版かかりそうです」
「嬉しいです、ほんと、夢みたいで……」
そう返しかけて、ふと気づいた。
「竹原さん、重版って、印税がプラスで入ってくることになるんですよね?」
「ふふふ、入金をお楽しみに。まだまだ売りますよ〜!」
ーーーー夫の扶養に入ったままでいられる金額を超えてしまうかもしれない。そこを超えると配偶者控除が受けられなくなるから、夫の年末調整で申請が必要だ。この収入について話さなければ、齟齬がでてしまう。
小説のヒットなんてまれだ、扶養内の収入であれば隠せるだろうと思っていたのに……。
今さら出版を止めることなんてできない。止めたくない。
一度の重版であれば、まだ扶養の上限は超えないだろう。多分、大丈夫。
櫻川先生のファンの人たちが買ってくれているだけだし、ずっとこの勢いが続くわけじゃないよね。
この封筒、なに?
「主婦作家」という、夫に隠した顔を持つようになってから、私の気持ちは安定した。育児も、家事も、いつものようにこなしながら梅田さんや竹原さんと仕事の話をする。夫の考えは変わらないだろう、話し合ったってどうしようもない。それなら、私は最低限のことをこなしながら、秘密を守っていくのだ。
玄関で物音がする。夫が帰ってきたようだ。
夕食の準備はすでにできている。あとは味噌汁をよそって……。
バタバタと準備をする私を、リビングにやってきた夫はじっと見つめていた。
「おかえりなさい、今日は魚だよ」
振り返り話しかけて、夫の右手に封筒が握られていることに気づく。
ーーーー出版社からの支払い通知書。
「これ、なに?」
身体中の血が、ざあっと引いていく。
豆知識:税金について
書籍化すると当然、収入が入ってくるため、確定申告など税関係の手続きが必要になる。詳しくは国税庁のホームページなどで確認しよう。
次回へ続く