2016-2018年のウェブ小説書籍化③ SF系ウェブ小説の書籍化と純文学が狙った「足し算」型のウェブ小説|飯田一史
2016年から2018年にかけては、広い意味での一般文芸に含まれるSFと純文学でもウェブ小説書籍化の動きが見られた。ただ、SFはウェブ小説との折り合いを見つけられたのに対して、純文学は散発的な施行に終わった。「歴史」を事実ベースで辿るに留まらず、今回はその違いがなにゆえだったのかまで考えてみたい。
SF系ウェブ小説書籍化の一般化
前回挙げた北野勇作の100文字SFのように、2016年からはウェブ発のSF小説が書籍化されることが当たり前になっていく。
早川書房が主催する第4回「ハヤカワSFコンテスト」で優秀賞を受賞した吉田エン『世界の終わりの壁際で』と黒石迩守『ヒュレーの海』はウェブが初出の作品だった。
吉田は2014年ころから「小説家になろう」で執筆を開始。黒石は2010年頃から個人サイト「矛盾でふらぐ。」で、2011年末頃から「なろう」で活動を開始。両作品は「なろう」投稿作を元にしている。また草野の作品はpixiv(※R18ーG)に投稿された、アニメ『ラブライブ!』の二次創作を改稿したものだ。
「SFマガジン」2016年12月号に掲載された選評では、選考委員のひとりである東浩紀が
今回は作品周辺の情報が多すぎた。選考はあくまでも作品の質を評価する場である。それはそうだが、実際には作家名が書いてあれば検索する。とりわけ今回の優秀作と特別賞は、すべて別媒体にいちど発表あるいは投稿された作品の改作であり(応募規定について議論すべきかもしれない)、その知識はどうしても将来性の判断に影響してしまう。
と、「作品外の情報によって選考が左右される」ことを理由に投稿サイト掲載作を選考対象外とすべきだと主張。しかし選考委員であり同誌編集長であった塩澤快浩は
小説投稿サイトや同人誌への既発表作をコンテストの対象とすることに疑義を呈する選考委員もいたが、個人的には、SFコンテストが優れたSFを正当に評価する場であるならば、応募作の出自は問わないというのが私の立場である(もちろん、応募規定に則っている限りにおいて)。
と一蹴している(それぞれ「SFマガジン」2016年12月号、早川書房、328p、331pから引用)。
以降は「なろう」や、この年開設されたKADOKAWA(開発は株式会社はてな)の小説投稿・閲覧プラットフォーム「カクヨム」掲載作品や活動作家の受賞は当たり前になっていく。また、最終選考で落選した作品をこれらのサイト(とくに「カクヨム」)に掲載する作家も現れるようになる。
たとえば「カクヨム」で「sanpow」名義で活動していた三方行成は、2018年の第6回「ハヤカワSFコンテスト」で同サイト投稿作をまとめた『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』で優秀賞を受賞してデビュー。デビュー後も『流れよわが涙、と孔明は言った』をカクヨムに投稿して、同作を含む短篇集が2019年に書籍化されている(同作はのちに早川書房がnote上で運営する「Hayakawa Books & Magazines(β)」でも一時無料公開された)。
また、2020年にはカクヨムに投稿した十三不塔『ヴィンダウス・エンジン』が第8回「ハヤカワSFコンテスト」優秀作となり同年書籍化されている(なお早川書房は書籍化作品をウェブから削除させるというアルファポリスと同じやり方を取っている)。
カクヨム内のランキング上位をSF作品が占めているわけではないものの、カクヨムはSF小説の投稿の場、書籍化作品の出自としても根付いた。これはベテランSF作家の山本弘が2016年6月から作品を投稿し始めたこともあろうが、もっとも影響力を及ぼしたのは『横浜駅SF』の存在だろう。
2015年にイスカリオテの湯葉が、際限なく横浜駅が増改築されて変貌を遂げていく様をTwitter小説(弍瓶勉『BLAME!』をパロディにしたネタツイート)として連投して話題となり、Tumblrに連載したのちカクヨムに投稿した小説が、2016年開催の第1回カクヨムWeb小説コンテストのSF 部門を受賞し、「柞刈湯葉」名義で16年12月に書籍化された。
また、カクヨムからは、2115年まで生き延びた著者が過去の低評価ゲームをレビューするサイトを開設したというコンセプトで書かれた赤野工作のSF小説「The video game with no name」が『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』に改題して17年6月に、碌星らせんの仏教SF『黄昏のブッシャリオン』が同年9月に書籍化されている。
こうして、早川書房とKADOKAWAが中心となって2016、2017年以降、ウェブ発のSFが書籍化される流れができた。とくに早川書房はその後もコンスタントにウェブ発作品を出版していく。代表的なものは2016年10月から12月にかけて「ムーンライトノベルズ」で連載され、2017年8月にTwitterで大きく盛り上がった平鳥コウ『JKハルは異世界で娼婦になった』である(同年12月に単行本化)。
また、直接的にはウェブ小説ではなく書き下ろしや「SFマガジン」連載だが、ネット上の人気や動向を見て企画されたものとしては以下のようなものがある。
たとえばスマホ向けのノベルゲームの同人サークルとして一部で注目を集めていた「超水道」のシナリオライター・ミタヒツヒトが書き下ろした『イマジナリ・フレンド』(2016年7月刊行)。
2017年2月刊の宮澤伊織『裏世界ピクニック』はいわゆるネットロア(ウェブ上に書かれた都市伝説や怪談など)を題材にしたもの。
同年8月からやはり書き下ろしだが、Arcadia出身のカルロ・ゼンによる『ヤキトリ』を刊行開始。
また、2016年11月からゲーム情報サイト「IGN JAPAN」でコラムとも私小説ともつかない「電遊奇譚」を連載していた藤田祥平が「SFマガジン」2017年6月号に短編SF「スタウトのなかに落ちていく人間の血の爆弾」を書いて商業デビューしている(同作を含む作品集が2018年4月に『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』として刊行された)。
これらのすべてが商業的な成功や収め、あるいはSFファンからの支持を得られたわけではないが、ウェブ発ないしウェブ絡みの(と一口に言っても、多様な出自や文脈を背負った)作家・企画にアプローチしていることがわかる。
2018年2月発売の早川書房刊『SFが読みたい!2018年版』では国内篇ランキングで『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』が第4位、『横浜駅SF』が第6位となり、同ムック収録の柿崎憲「このweb発SFが読みたい!」では「もはや素人が書いた作品だからといってWeb小説を甘く見ていい時代は終わったのだ」と書かれ(28p)、「SFマガジン」2018年6月号から柿崎憲の連載「SFファンに贈るWEB小説ガイド」が始まる。
なろう系については「SFマガジン」のレビューコーナーでは、2012年のヒーロー文庫創刊時に触れられた程度で長きにわたってラノベ欄でもファンタジー欄でもほぼ黙殺されてきたが、ついにSF媒体でもコンスタントに取り上げられるように変化した。
「コンスタントに」と断ったのは、たとえばそれ以前には私がウェブ小説のファンタジー作品(なろう系など)を批評した論考を寄稿した限界研編『ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF』(南雲堂)が2013年8月に刊行されているし、「SFマガジン」2015年2月号にやはり私が丸山くがね『オーバーロード』論を寄稿しているからだ。また「SFマガジン」2014年6月号「ジュヴナイルSF再評価」特集で三村美衣が佐島勤『魔法科高校の劣等生』(電撃文庫)を「ネット連載で人気を獲得」「イレギュラーな作品の背景に、各レーベルが開催している新人賞ではなく、ネットの小説サイトの存在があるのもおもしろい現象」(59P)と紹介したことがあった。
いずれにしてもSF業界はウェブ小説を「甘く見る」のを2016年から改め始め、2018年にはやめた。
もっとも、もともとSFに強い版元だったわけではないKADOKAWAが2018年以降もこの路線に積極的だったかといえばそうではなく、ウェブと連動したSF企画といえば早川書房に絞られていくことになる。
たとえば「SFマガジン」2019年6月号に掲載した小野美由紀の『ピュア』を早川書房のnote「Hayakawa Books & Magazines(β)」に掲載して20万PV以上となった(同note上最大のアクセスだったという)あとで短篇集として書籍化するなど、ウェブ初出ではない小説をプロモーションとしてサイトに掲載するという手法も一般化していく。
「一般文芸」にSFやホラーのようなジャンル小説を含めるかどうかは議論の分かれるところだが含めることにするならば――含意としてはラノベやウェブ小説、ロマンスやポルノではないということだが――、SFはいわゆる一般文芸のなかでは比較的うまく、ウェブ小説との自然な距離感を確立できた、稀有なジャンルだと言える。
ギルド/コミュニティ/ファンダム内の相互評価で作品価値が決まるSF小説という個性
なぜそれができたのか。
「SF」というと先進的なイメージがあるかもしれないが、早川書房は、たとえば新潮社や角川が2000年代にケータイで一定の成功を収めていたころ積極的に乗り出してはいない。
また、2010年の「電子書籍元年」に沸いたころKADOKAWAや文藝春秋、新潮社がそうしたように電子雑誌創刊に乗るわけでもなかった。2012年に始まり2015年にクローズした講談社アマテラスのように自社で投稿サイトを持つこともしなかった。デジタルパブリッシングの波に先んじて乗ろうとした気配は見られない。2013年に藤井大洋『GeneMapper』をKDP発から書籍化したくらいで、ほかは2016年になるまでウェブ小説書籍化にも手を出してこなかった(正確を期すならば、アミューズメントメディア総合学院が運営していた投稿サイト「ノベルジム」が主催する「ノベルジム大賞2014」に竹書房、株式会社ICE、SBクリエイティブ、PHP研究所とともに早川書房も協賛したことはある。ただし、この賞の応募作から早川書房は書籍化していない。この賞/サイトから書籍化したのは竹書房だけである)。
ただもう一方では、「SFマガジン」は2010年代初頭から海外SFの電子やウェブでの展開を継続的に紹介していた。
2010年から2012年頃まで散発的に電子書籍や電子雑誌、あるいはデバイス紹介の記事を掲載した小説誌はいくつかあるが、その後も追い続けていたのは「SFマガジン」だけである。
つまり早川書房はこの間のウェブ小説書籍化、デジタルパブリッシングの動きに関して成功体験がない代わりに失敗体験もなかった。一般文芸の世界では、いくつかの電子雑誌の商業的失敗によって、また、講談社アマテラスや新潮社yomyom pocketといった自社サイトの失敗によって、電子やウェブに対するチャレンジの気運は、2010年代半ばには2010年代初頭と比べても低調になっていた。だが早川書房は電子雑誌にも自社小説サイトにも手を出さず、したがってコスト的に痛い目を見ていなかった。
そして2014、2015年に起こったなろう系書籍化とライト文芸の商業的確立を経て、その二大潮流に対して書き手の中にも出版事業者的にも読者としてもオルタナティブやジャンル的拡張を求める動きがある――たとえばその象徴がKADOKAWAによる投稿サイト「カクヨム」の設立である――なかで、歩みが遅かったからこそSFでは、ウェブとジャンル小説とが「ちょうどいい距離感」で付き合うことが2016から2018年に可能になった。
「ちょうどいい」とは、どういうことか。
早川書房は、なろう系で2013年以降顕著になった「投稿サイト上でランキングとポイントを見て競うように新作に対して書籍化をオファーする」ことはしていない。
また、投稿サイト上で新人賞を開催もしない。
しかし、初出が「なろう」や「カクヨム」の作品であっても、自社で主催しているハヤカワSFコンテストで受け入れる、という程度のスタンスだ。
あるいはTwitterで話題になったもので早川書房/SFジャンルとして受け入れられる範囲のうちで取り込む(実際にSNS上でSF関係者が盛り上がったのちに「SFマガジン」で特集を組んだり書籍化された例としては『JKハルは異世界で娼婦になった』、『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』、『異常論文』などがある)。
ないしは、ウェブで書いている作家でSFに適性のありそうな場合に声をかける(カルロ・ゼンのパターン)、というものだ。
この態度の意味するところは、つまりこういうことだ。
今日のほとんどのウェブ小説の投稿プラットフォームはアクセスやいいねやブックマーク登録数などを可視化し、ランキング付けするという仕様であり、一般読者の「人気」で決まる世界である。
対してSFは、『SFが読みたい!』というムックでランキングを決めてはいるが、投票権を持つのはSFジャンルの作家や書評家、批評家、編集者に限定されている。言いかえれば、価値観をある程度共有するギルドないしコミュニティ内の相互の「評価」によって作品の価値が規定される世界である。
したがって「ウェブで人気の作品を書籍化すればSFとして評価される」という単純な図式は成り立たない。これはSF以外でもミステリやホラー、純文学などでも同様の課題がある。だからこそ、これらのジャンルの作家や編集者は、ウェブ小説に対して距離を置き、目を向けない事態につながってきた。
しかし、2016年以降に確立されたSFからのウェブ小説/ウェブ文化への付き合い方は、こういうものだ。
一般読者の「人気」よりもまず、SFに造詣のある人間(編集者など)からの「評価」を前に置いて書籍化の可否を決める。また、「ウェブで盛り上がっている」といっても、誰でもいいから盛り上がっているものを本にするのではなく、SF作家やSF界隈のライターが盛り上がっていることを受けて雑誌の特集や書籍化企画を考える。
このようにして「ギルド/コミュニティ/ファンダム内の相互評価で作品価値が決まる」という従来からのジャンルの営為を大きく変えることなく、機動的にウェブ上の盛り上がりを雑誌や書籍の売上につなげたのだ。
SF以外のジャンル小説でも応用可能なウェブ小説との付き合い方、ジャンル内「評価」とウェブ上での「人気」という異なるアルゴリズム/制度の折り合いの付け方が、ここに確立されたと言える。
だが、同じ早川書房でもミステリジャンルでは同様のことは行われていない。
「ミステリマガジン」では「SFマガジン」とは異なり電子やウェブの動きの紹介はされておらず、早川書房の国内ミステリではウェブと連動した企画に目立った動きは見られなかった。
いや、「ミステリマガジン」に限らず国内のミステリ雑誌/ミステリ小説の編集部は基本的に同様の傾向にあった。ミステリジャンルでは――『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』『京都寺町三条のホームズ』などライトミステリ路線ではエブリスタとの接点が見られたものの、それ以外では――SFとは異なり、ウェブ小説やウェブ出身作家、ウェブ上の盛り上がりを受けての企画が陸続と生まれることはなかった。
やはり2010年代における失敗体験の有無と、ウェブ小説書籍化やデジタルパブリッシングに対して継続的な関心を持ってアンテナを張っていたかどうかが、この差を生んだ要因のひとつと考えられる。
純文学は「足し算」型ウェブ小説を目指す――『マチネの終わりに』『キュー』『MISSING』
純文学でもこの時期、紙とウェブを連動させた小説企画があった。ここから純文学がウェブを利用するときの「特徴」が見えてくるのだが、まずは純文学サイドがこの時期ウェブ小説をどう思っていたのかから確認しておこう。
文芸春秋の「文學界」編集長、武藤旬さんはどう見ているのか。「投稿サイトが純文学の領域を押し広げるとは思えない」と話す。やはり、純文学というジャンルの登竜門にはなれないのか。「ライトノベルやエンタメとは違い、私たちが携わる純文学には、生き方でも世界への視野でも新しい発見がある点に、読む面白さがあります。ストーリーだけではないんです。どちらかと言えばノンフィクションに近いジャンルだと私は見ています。芸人さんがライブで客の反応をうかがうように、読者の反応がすぐにわかるのがサイトの利点ですが(領域を奪われる)脅威は感じません。エンタメ小説を目指す人がクラスに2、3人とすれば、純文学は全校で1人くらい。市場原理で動く世界ではないので絶対数も少ないんです」
「毎日新聞」2017年9月26日夕刊「特集ワイド:「書きたい人1000万人」ネット小説は鉱脈 投稿、倍々ゲーム 評価見ながら執筆も」
では純文学作家はウェブ小説にどう取り組んだのか。3つ紹介したい。
ひとつは2015年3月から毎日新聞朝刊およびnoteにて連載され、16年4月に毎日新聞出版から書籍化された平野啓一郎『マチネの終わりに』である。刊行時に筆者がピースオブケイク(当時。現note)代表の加藤貞顕に取材した記事から引こう。
『マチネ』は新聞連載が決まる前に平野氏から「今、純文学は売りにくくなっている。何かできないか」と打診されていた。
そしてこれを受けて作品のテーマ選びや挿絵や装丁、渋谷ヒカリエでの作品展示会をはじめとした各種イベントや売り方、書店営業まで、平野氏が契約するエージェント会社・コルクとピースオブケイクで頻繁に打ち合わせを重ね」て作られた。
つまり純文学ではあるが「売る」ことを狙って企画され、映画化されるほど好評を得た。
「『マチネ』は音楽を題材にした小説だから作中に登場する楽曲についてはユーチューブへのリンクを貼り」、さらには「現代美術作家らとコラボした。加えてハッシュタグを付ければ自由に一般ユーザーも参加できるようにしたところ、あるピアニストが同作品からイメージした曲を投稿する、といったこともあった。(「新文化」2016年4月14日号)
つまり、なろうやエブリスタ発では当たり前に行われているような「小説をウェブに連載して書籍化する」以上の試みをいくつも重ねて実施されたものだった。
なお、平野に関しては
たとえば、日本側でもっとも若い世代の平野啓一郎氏や綿矢りさ氏、それと韓国の同世代作家の金愛燗(キムエラン)氏は、ネット小説やケータイ小説にあまり抵抗感を持たないのに対し、韓国の解放前の世代である呉貞姫氏は、若い世代の作品をまるで「宇宙人の言葉」のようだと述べた。中国の長老詩人・雷抒雁(レイスィイェン)氏はパソコンやケータイを使わ(え)ないと告白。その世代的断絶があらわとなった。(「信濃毎日新聞」2008年10月29日朝刊「東アジア文学フォーラムに参加して 日韓中、差異超え共感へ 国よりも世代的な違い(川村湊)」)
という記事があり、この記述を信じる限り、2000年代後半の第二次ケータイ小説ブームのころからウェブ小説に抵抗はなかったようだ。
もうひとつ2010年代後半における純文学ウェブ小説の試みは、2017年10月号の文芸誌「新潮」から連載が始まった上田岳弘の小説『キュー』をYahoo! JAPANにて週2回更新でほぼ同時に掲載した、というものだ。
Yahoo!版はスマホ向けのブラウザで読むことができ、クリエイティブ・イノベーション・ファーム「Takram」がページデザインを担当。「Web上での全く新しい読書体験を提供」と謳われた(「新潮×Yahoo! JAPAN共同企画「キュー」上田岳弘」)。
「小説を配信するだけでは面白くない。スマホでしかできないことをしたいという思いがあった」と上田氏が言う通り、従来の電子書籍リーダーを大きく超えた取り組みが随所にある。
縦書きの小説約234文字分の固まりがブラウザーに表示され、縦スクロールで親指を動かすと、次の文字群がスムーズに表示される。通常のウェブページで活用される「無限スクロール」より目の負荷が小さく、電子書籍リーダーで活用される横スクロールよりも指が疲れにくい。
そして、章の始まりには、タップする場所に応じてデザインが生成される、ジェネラティブアートが施された。読者の数だけ違う挿絵が出現し、それをSNSで共有できる。章の終わりには、小説とリンクする設問と4つの選択肢が現れ、1つを選ぶと回答率が表示される参加型の仕掛けも用意されている。(「日経クロストレンド」、「ヤフーと組んだ芥川賞作家、上田岳弘が挑む「未来の文学」」)
文芸誌に小説を掲載する際には「小説を掲載するだけでは面白くない。紙でしかできないことをしたい」などと言う作家はまれだろう。しかし、ウェブに小説を載せるとなると、純文学の人間は2010年代後半には「素直に使う」ことを基本的にしなかった/好まなかった――ウェブ小説もネットに書かれ始めてからこの時点までに四半世紀近く経っているという意味では文芸誌同様に新しくもないものなのだが。
しかも残念なことに、すでにウェブ小説や電子書籍が当たり前の存在となり、くわえて『3D小説bell』のようなARG小説を体験済みの人間からすると、『キュー』のどこが「全く新しい読書体験」「参加型の仕掛け」と言えるのか、個人的にはわからなかったし、ジェネラティブアートも特におもしろみを感じなかった。 客観的に見ても、画期的な試みとして話題になったとは言いがたい。
とはいえ『マチネ』同様に「小説を配信するだけでは面白くない」からさまざまな要素を加えるのが「文学」がウェブ小説と向き合ったときの特徴だと言える。
この傾向は2013年12月からメールマガジン「JMM(Japan Mail Media)」上で連載された村上龍の小説『MISSING』(2020年3月刊、新潮社)でも同様だ。村上は自身のメルマガで連載するにあたり、自分が撮った写真を加工した画像を掲載していたが、紙の書籍版とは異なり、電子書籍版ではそれらが収録されている。つまりやはり文字にプラスオンで何か付け加えている。
村上龍は、これ以前から純文学作家としてはデジタルメディアの活用に積極的なほうだった。たとえば村上龍がプロデュースし、書き下ろし小説などを連載する有料会員サイト「TOKYO DECADENCE」は1997年6月に始まり、同サイト上には小説『トパーズ』英訳版や書き下ろし連載小説『THE MASK CLUB』が発表され、『THE MASK CLUB』は幻冬舎から2001年7月に書籍化されている。同サイトでは村上が撮り下ろした写真や坂本龍一が作曲した音楽もコンテンツとして提供されていた。
また、村上龍は「群像」1998年1月号から1999年11月号まで隔月で連載した『共生虫』を2000年3月に刊行した。その際、『共生虫』公式サイト 上で行ったジャーナリストの筑紫哲也や作家・田口ランディとの対談や読者の声を収録したCD-ROM付き書籍『共生虫ドットコム(講談社、2000年)という本も刊行している。さらに1999年3月にはメールマガジン「JMM」を刊行するなど意欲的に活動していた。『共生虫』はひきこもりとインターネットの話だが、『共生虫ドットコム』の中での栄花均のコラム「Kyoseichu.comのはじまり」によれば「当時は文学作品のオフィシャルサイトは私が知っている限りにおいては存在」しなかったという(同書96p)。
ただし、村上龍が書いたウェブ小説自体の書籍化は『THE MASK CLUB』と『MISSING』に限られる(共生虫ドットコムのメールサービスに登録すると、「『共生虫』の主人公ウエハラが書いたメール」という形式で短い文面――もちろん実際は著者の村上が書いたもの――が14通送られてきたが、これは書籍『共生虫ドットコム』に収録されており、「ウェブ小説書籍化」と言えなくもない)。
村上は「電子書籍元年」の波に乗ってiPad用電子書籍アプリ『歌うクジラ』を2010年7月にリリースしたとき、小説に坂本龍一の音楽を付けてもいた。ウェブや電子書籍では「小説+音楽+写真」という構成が実現できる。ここには映画監督を志向するも『だいじょうぶ、マイフレンド』で自らメガホンを取って失敗し、挫折した村上龍らしい「マルチメディアの夢」「総合芸術の夢」が托されているのだろう。
ともあれ平野、上田、村上の話に戻ろう。
この三者を並べると「小説に何か足さないとウェブでやる意味がない」と純文学の人間が考えがちだという傾向が見て取れる。
未書籍化の純文学作家によるウェブ小説としては藤沢周が2015年6月から11月まで「ぐるナビ」上に全3回を書いた『明日、カウンターの地平線で』があるが、これも飲食店の外観や料理の写真とともに掲載されたものだった。
この時期には小説家になろうやエブリスタなど、基本的に文字だけで表現するサイトからの素直なウェブ小説の書籍化はもはや当たり前になっていた。であるがゆえに、純文学は「エンタメ小説とは違うかたちでウェブと関わらなければ純文学らしくない」という差別化意識が働いた。結果、純文学ではウェブ小説に何か「足す」ことが行われたのだろう――もっとも、ほとんどのウェブ小説ユーザーにとっては「(ウェブで読む)小説として面白いかどうか」だけが重要なのだが。
筆者には『マチネの終わりに』『キュー』『MISSING』は「新しい」というより90年代的、つまり「古い」ものに見える。「ウェブなら文字だけでなく写真や音楽などといっしょに展開できる」という「マルチメディア」志向、小説においても「ウェブならではの」「ウェブでしかできない」しかけを考える、あるいは縦書きへのこだわりは、90年代のインターネット空間や電子書籍に見られた発想が回帰したものに映る。
平野啓一郎がやはり新聞小説である『本心』を「平野さんの希望で、紙面から4日遅れで東京新聞ホームページにも掲載」するという素直な使い方をするようになるのは2020年のことである(「平野啓一郎 連載小説 本心」文藝春秋からの書籍化は2021年)。
なお、新潮社の文芸誌「新潮」は2016年6月号から公式サイト上で「立ち読み」と称して掲載作品の冒頭部分をウェブ公開し、2021年末から「特別試し読み」と呼んで連載作品である水村美苗『大使とその妻』や中森明夫『TRY48』、エリイ(Chim↑Pom)『壺中の天地』を掲載している。いずれも形式は「目の負荷」が大きいという横書き・縦スクロールで、上田岳弘が「面白くない」と言った「小説を配信するだけ」のものだ。
また、「足し算しがち問題」とは別の切り口から純文学でこの時期、作品をウェブ掲載したケースとして言及しておくべきは北条裕子『美しい顔』である。
この作品は2018年に群像新人賞を受賞して「群像」2018年6月号に掲載され、芥川賞候補にもなっている。だが、発表後すぐに石井光太や金菱清ら複数の東日本大震災に関する著作からの盗用(文章表現が酷似する箇所の存在)が指摘され、石井の『遺体―震災、津波の果てに―』の版元である新潮社が「参考文献として記載して解決する問題ではない」と声明を出すなど、大きな問題となった。
講談社は7月3日に「作品の根幹に関わるものではなく、著作権法に関わる盗用や剽窃などには一切あたりません」と新潮社からの批判への抗議文を発表し、4日に「評価を広く読者と社会に問う」として同作の全文をサイト上に公開。しかし9日には北条が謝罪文を出し、13日にはウェブ公開を終え、2019年4月に書籍化された。
『美しい顔』のウェブ公開はふたつの意味で不可解だった。まず、著作権法上の問題は弁護士を介しての対話か法廷で決着を付けるしかなく、ウェブ公開しても何の意味もない。また、作品評価という観点から言えば、純文学はギルド(作家、批評家、編集者のコミュニティ)内で作品の評価を決めている場である。先ほど引いた「文學界」編集長の「市場原理で動く世界ではない」という発言が典型だが、「市場原理」=「一般人の感覚」では良し悪しを決めさせないことを公言している。ふだん作品の評価に一般読者を介在させていないのに、トラブルが起こったときだけウェブ公開して「広く読者と社会に問う」が通用するはずがない。たとえ読者や社会が支持したとしてもそれはギルド内の評価とは関係がなく、やはり無意味な行為である。
純文学界隈での「揉め事が起こったあとで文芸誌掲載作品をウェブ公開して読者に問う」行為は、桜庭一樹が「文學界」2021年9月号に私小説として発表した『少女を埋める』についての論評をめぐって翻訳者の鴻巣友季子と桜庭とで論争になった際にも繰り返されている。
やはりこれらも純文学がウェブ小説と付き合ったさいに見られる「飛び道具」的な使い方の事例と言えるだろう。
一般文芸系サイトの設計・施策に見る「読者」へのアプローチの欠如
さて、この時期、純文学ではなくエンタメ文芸作品では何があったか。
2017年8月には宿野かほる『ルビンの壺が割れた』(新潮社)が発売前の小説を2週間全文無料公開して作品のキャッチコピーを公募するというキャンペーンを実施してヒットしたり、同年11月にはやはり発売前に蘇部健一の書き下ろし小説を全文公開してタイトル募集企画を小学館が行う(『小説X あなたをずっと、さがしてた』に決まり18年1月刊行)といった試みもあった。
やはりこちらもウェブを素直に使う、ウェブと素直に付き合うのではなく「飛び道具」的に使っている――これらはラノベやライト文芸への対抗意識からそうしたというより、2017年1月に実施された西野亮廣『えんとつ町のプペル』無料公開のフォロワーだろう。
「別冊文藝春秋」連載の七月隆文の新作『天使は奇跡を希う』が2015年12月からnoteでも週二回連載されるなど、素直な使い方も見られたが、同作品は文春文庫から2016年11月に刊行された際には田中将賀のイラスト付きで「ライト文芸」として刊行されており、「一般文芸」でのウェブとの付き合い方とは一線を画している。
一見、素直な付き合い方に見える一般文芸系の小説サイトとしては、たとえば2017年に創刊された月2回更新の双葉社文芸WEBマガジン「COLORFUL」(カラフル)や、2004年創刊の小説誌「きらら」をリニューアルした20年創刊の小学館「小説丸」などがある。
約10年前にWeb文芸マガジン「カラフル」を立ち上げた当初、書籍を発売する前に無料連載することについて、社内外から「紙の本が売れなくなる」と懸念する声もあったというが、大城編集長は「小説投投稿サイトから生まれた『キミスイ』が大ヒットするなど、媒体ごとに読者がいることが明らかになった」と語る。(「新文化」2021年9月23日号、新文化通信社)
これらのサイトは素人から投稿を募るのではなく、プロ作家が執筆した短篇小説を掲載または長篇小説を連載し、無料で提供するものだ。「COLORFUL」からは知念実希人『ムゲンのi』(2018年11月から連載開始、2019年9月書籍化。2020年本屋大賞候補。上下巻で16万部)のようなヒット作が生まれている。
「COLORFUL」は2021年9月にリニューアルし、ニュースアプリのSmartNewsやGunosyにも配信が始まった。しかし、「COLORFUL」や「小説丸」は、ウェブサイトとして静的かつ、送り手側が一方的に作品を届ける仕様になっている。なろうやエブリスタ、カクヨムなどでは当たり前にある読者のコメントや評価、ランキングなどが出版社発一般文芸系ウェブ小説誌に備わっていることはほとんどない。
2000年代中盤にバズワードと化した「Web2.0」の特徴は「動的」「参加型」、ユーザーが「発信」「共有」できることだとされた。2022年現在の日本で大手と呼ばれる小説投稿サイトの多くはこの時代に誕生または成長し、これらの特徴を有している。
一方で一般文芸系ウェブ小説誌は「Web1.0」のパラダイムで運営されている。TwitterやFacebookへのシェアボタンは設置されているものの、本気で作品の拡散を意図しているとは思えないし、作者に読者がフィードバックするような双方向性が生まれるような設計になっていない。作品に対する読者の存在・介在が「ない」もののようなサイトのデザインになっている。読者が透明化、無力化されているのだ。
先に挙げた作品で言えば、『マチネの終わりに』は読者と交流し、読者が積極的に参加したくなる要素があったからこそ映画化するまでにヒットしたが、『キュー』は徹頭徹尾送り手目線だったから結局のところ広がりに欠けた、と整理することもできよう。
この点も含めて、2016年に始まったカクヨムが、2010年代以降にスタートした出版社発の投稿サイトとしては2021年現在比較的成功と言っていい位置を占める唯一の存在になりえたのはなぜかという点を次回④で考えてみよう。
『横浜駅SF』
著:柞刈湯葉 イラスト:田中達之 カドカワBOOKS(KADOKAWA)
この「18きっぷ」で、人類を<横浜駅>の支配から解放してほしい。
日本は自己増殖する<横浜駅>に支配されていた。脳に埋め込んだSuikaで管理されるエキナカ社会。その外で廃棄物を頼りに暮らすヒロトは、エキナカを追放されたある男から人類の未来を担う“使命”を課され……
『マチネの終わりに』
著:平野啓一郎 文春文庫(文藝春秋)
平野啓一郎のロングセラー恋愛小説、ついに文庫化!
たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった――
天才ギタリスト・蒔野聡史、国際ジャーナリスト・小峰洋子。
四十代という〝人生の暗い森〟を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死など、現代的テーマが重層的に描かれる。
最終ページを閉じるのが惜しい、至高の読書体験。
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