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校正作業はイメージのすり合わせ|逢坂千紘

 こんにちは、逢坂千紘です。
 前回好評をいただきました「物書きのための校正教室」の続編です!

 monokakiのアカウントで「#monokaki公開校正」として作品を募集してもらったところ、たくさんの反響があり、すぐには読み切れない数の作品を送っていただきました!
 ほんとうにありがとうございます!

 今回は4作品から気になったところをピックアップして、校正的なポイントなどを解説してゆこうと思います。(もっとたくさんの作品を公開したかったのですが、私の話が長いので少しずつやらせていただきます…笑)

 以前にも申したとおり、校正の目的は粗探しではなく、作品のクオリティアップ(を支えること)です。校正によって新たな探求、新たな発見があれば素晴らしいことだと思います。
 書籍の校正者であれば、そういう前向きな気持ちを心のなかで育みながら作品と向き合っているはずです。1文字ずつ愛を込めています。いまのところ「校正ソフト」では再現できていない大切なポイントですね。

 それでは、公開校正、やらせていただきます。

(※いつものディスクレーマーを念のため記しておきます。一介の校正者の個人的な意見をもとにした読み物です。校正には正解がありません。考えかた、判断基準、時代の流行、諸都合、いろいろなものがあります。ご理解のほどよろしくお願い致します。)

漢字/かなの「ひらき」問題について考える

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作品名:64bitの探偵~ゲームに寄り道は付き物~
作者:色部 耀

冷たく突き放すような言葉は突き放すというより寧ろ突き刺さると言った感じで、言葉の棘に貫かれた少年はペタリと地面に座り込む。冷たいアスファルトに力なく腰を付けた少年の顔は西日を真正面から受けているにも関わらず暗く――絶望した表情を浮かべていた。

(1)と言った
 大前提として、任意の表現を「漢字書き」にするか「ひらがな書き」にするかは作家さんの感性によります。それでも校正者(や編集者)が表記について問い合わせるのは、読者がどう読むだろうかというイメージを作家さんとすり合わせたいからです。

 ただ、ここで取り上げる「と言った」という漢字書きは、ほとんどすべての校正・編集の担当者を泣かせるポイントであり、なおかつキャリアを積むにつれて職能的なアドリブでやり過ごせるようになる部分でもあります(つまり、深入りしない選択がうまくなります)。本来であれば私も深入りしないタイプですが、今回は公開校正ということで取り上げました。

 この問題は、「という」だけではなく、「~といえば」「~的にいえば」「いわば」「そういうこと」「いってしまえば」「はっきりとはいえない」「いわせてもらえば」なども同様です。

 なぜかというと、「言う」という具体的な動作がともなうものは漢字で書くというひとつの基準があります。そこから逆算して、「野球といえば正岡子規」のような、実際には言っていないものをひらがなで書く、というなんとなくの表記センスがあります。
 これで済めばいいのですが、ただ、このルールを敷いてもあまりうまくいかないことがあります。例えば、「父が遺言で言い残したこと」は、実際に声に出してないので「いい残す」になるかといえば、やっぱりちょっと違う気がします。つまり、今度は見た目(字面)の気持ち悪さだったり、ダサさだったりが生じはじめて、なんかうまくいかない気がします。

 ほかにも、「彼は平成の文豪といえる」は、実際に言っていないのでひらがな書きにしてみますが、文末にひらがなが偏ってバランス悪く見えるような気もします。さらに「彼のことを平成の文豪といってもいい過ぎではないだろう」にすれば、やや読みにくいです。

 そうなったときに「と言っても言い過ぎでは」にするのか、「といっても言い過ぎでは」にするのか。そして、それを説得するだけの基準とはなんだろうか、という話になります。その理屈を打ち出せる能力のある校正者や編集者というのは、おそらく限られた人数しかいないのではないかと思います。そういう都合から、理屈ではなくアドリブになっていくのかなと感じています。
 当作品の作家さんである色部さんは、「為」「遂に」「寧ろ」なども漢字書きしている作家さんなので、もし私なら「ここも漢字書きでいいかもな」と思って鉛筆出しをしないでしょう。1)
 これをもっと深掘りしていくと、日本語の漢字は、あまり整理されていないというところにたどり着きます。つまり、「言う」でも「云う」でも通用するのは、良きにつけ悪しきにつけ、日本語が漢字をけっこう自由に(おおらかに)扱っていることによるでしょう。2)
 そうした事情から、漢字まわりは基準をたてにくいのです。よく指摘される「犯罪を犯す」「旅行に行く」などの重複表現も、似たような観点から実は単純じゃないことばかりですが、それはさすがに長くなるので、別の機会に取り上げたいと思います。

(2)付けた
 「腰付け(こしづけ)」ということばがあって、こちらは腰に携帯しているということです。本文のような、へたへたと力なく座ることは「腰を突く」といいます。一見すると意外な表記ですが、「杖(頬杖)を突く」のような一点に鋭く当たることを「突く」と言うので、腰が地面を突いているような表現なのかもしれませんね。

 ただ、こちらも先ほどと同様「突いたのではなくて、腰を地面にくっ付けるイメージ」が作家さんのなかで優先されていれば、「腰を付けた」が結論だと思います。そういうことはどんどん校正者に言ってください。「つく or 突く?」とだけ書かれていると喧嘩でも売ってるのかと感じられるかもしれませんが、実は「著者さんからの戻し(著者校)がいちばん勉強になる」と校正者のみなさんは思っているはずです。3)

(3)関わらず
 これはデジタル機器で創作しているひとならだれでも経験したことがある誤変換です。もともとは漢語の「不拘」ということばを書き下したものなので、「~にも拘らず」とするのが表記法としては望ましいところでしょう。辞書でも「拘らず」か、ものによっては「係わらず(不係)」が紹介されています。

 例えば、本家の慣用句には「不拘小节」(小さいことにはこだわらない)とか、「不拘一格」(形式にかかわらず)のような成語があります。日本でも、作家さんによっては「不拘」と書いて「かかわらず」と読ませる作家さんもいます。漢文の素養がある作家さんですね。4)
 こちらに関しては、正直なところ「関わらず」が読みやすいのですが、いちおう校正者として「かかわらずにしますか、拘らずにしますか」というのを国語辞書の説明と共にお出しすることにしています。十年後には「関わらずも可」とする国語辞書があるかもしれませんね。私が知らないだけで、もう認めているものがあるかもしれません。5)


新婚半年は「ほやほや」でいけるか

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作品名:辛くなければカレーじゃない
作者:オオタヒロアキ

「もしかして、家でまた、あまーいカレー、食わされたんだろ?」
良介が忠男を冷やかす。
「それが幸せなんだよ、幸せ。こうやって会社の昼休みに、からーいカレー食うから、いいの」
忠男は新婚半年のホヤホヤ。ある事情があって、妻が家で作るカレーは、いつも大甘のカレーだ。
「なぁ、そろそろ、奥さんに言ってもいいんじゃないか、『俺は辛いカレーが好きなんだ!』って。長い結婚生活、嘘つくと、後からきついぞー」

(中略)

半年前に結婚して以来、カレーは毎週のように食卓に出てくるが、それは全て、由紀が腕を振るった大甘カレーだ。忠男は喜んで、その大甘カレーを食べているが、その度に心の中では、「明日、会社の昼休みには、思いっきり辛いカレーを食べてやるぞぉ」と叫んでいる。

(1)新婚半年のホヤホヤ
 かなり悩んだところです。長い結婚生活を考えれば、新婚半年でも「ホヤホヤ」という表現はあり得るかもしれません。入籍と同時に同居して、半年ぐらいはいろいろなことに驚いたり感動したり、新鮮な感覚があると思います。入籍が同居よりも早かった場合は、1年ぐらいあっても新婚の雰囲気というのがあるでしょう。

 逆に「ほやほや」ということばに立ち返れば、湯気や熱に用いる擬態語なので、具体的な期間よりもむしろ熱があるかどうかを基準に考えるのもアリかもしれませんね。そこから考えると本作品の夫婦はアツいので、ホヤホヤかもしれません。

 みなさんはどう感じるでしょうか。友人に聞いて回ったら「ギリギリホヤホヤ」が大多数だったので、実際の校正の現場だったらママ(そのまま)にするかもしれません。

(2)以来
 これは一種の事実確認のようなものですが、結婚前の期間にもカレーぐらいならバンバン作りそうなイメージなので、結婚後の手料理カレーを喜んで食べているという話に限られているのがやや気になりました。

 長い作品であれば、本文中に交際期間の話なども出てくるので、本来であればその部分と照合したり、設定資料も出してくださる作家さんならそれを照合します。それでも疑問に感じるときは、鉛筆で交際期間中のことと整合性は取れているか確認することもあるでしょう(なぜなら、急に本作品を連載にしようとなって交際期間中の話を挿入することになるなどもあり得るため)。


誤変換を避ける鍵は、もとの概念を知っておくこと

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作品名:雨傘の涙
作者:緒方あきら

 私を手に、ご主人様が家を出られました。
 おふたりは結婚し新しい家に移り住みましたが、私は今も役目を全うし続けております。
 ですが、この日はいつもと少々勝手が違ったのでございます。それはご主人様が家に帰られる時に起きました。ご主人様が使われる、電車という乗りものがいつにもまして混雑していたのでございます。
 人が押し込まれたせまい空間で、ご主人様は必死に体制を保とうと私におすがりくださいました。
 そこに、大きな身体の男性が倒れ込んできます。私はとっさにご主人様をかばい、二人の間に身をすべり込ませました。
 なんという重圧。
 瞬く間に骨が数本が折れ、いびつに外側へ曲がってしまったのです。
 なんとか電車から降り立った時、私の身体はボロボロになっておりました。
 外からは聞きなれた雨の音が私を呼んでいます。

(1)おふたり・お一人・二人
 数字の表記問題はよくあります。変換のノリ(タイピングのノリ)も影響しているので、私自身はけっこう細かく問い合わせます。

 私が校正を担当しているメディアでは、横書きの媒体ということもあって「1人」のように算用数字(アラビア数字・洋数字)の半角表記が原則ですが、「お2人」のように見た目の違和感があるものはどうしようかということで厳密なルールは設けていません。ひらがなだったり漢字だったりのどちらかをアドリブ対応ということになっています。このあたりは厄介ですよね。

 これについてはルール的なものが各所にあって、いろんなところで仕事をするフットワーク軽めの校正者は、その都度ガイドラインを念入りに確認します。
 ただ、ガイドラインにのっとって直すと、読みにくいことがよくあります。例えば、新聞を読んでいるときに、縦書きですが「二塁打で1失点」のような交ぜ交ぜスタイルに出会って、読みにくいなあと感じたことがあると思います。

 よくあるルールは「変化しないものは漢数字、変化するのは算用数字」です。めっちゃシンプルですが、完璧ではないのでアドリブが発生するでしょう。「二人三脚」は人数が変わることもありそうですし、「第一に」といえばもちろん「第二に」もあって、それをどう解釈するかはひとによります。
 「二世タレント」は、三世もあるから算用数字にするかとか、「世界一周」は二周してもいいので算用数字かとか、そういうことを考えると際限ありません。

 実は(漢数字の発祥地の)中国でも、このあたりは交ぜて使っています。いちおうルールっぽいもの(「出版物上数字用法的規定」)はあるのですが、おなじくアドリブが発生しています。

(2)体制
 こちらも変換のいたずらでよく起こる同音異義語モノですね。ただ「よくある同音異義語だ」で済ませると終わらない誤変換なので、もととなった概念を知っておくと使い分けの整理に便利かもしれません。

 体制というのは、フランス語の「レジーム(régime)」を翻訳したものだと言われています。学校で習うように、ふつうは「政治のシステム」のことですが、フランス語では他にも「計画」や「ダイエット」という一般語でもあります。長期的な見通しやルールのあるもののことです。

 一方で、体勢というのは、ドイツ語の「ケルパーハルツング(Körperhaltung)」を翻訳したものだと言われています。意味としては「身体の構え」です。

 これらを踏まえた上で、「制」は長期的なもの、「勢」は短期的なものに使う、ぐらいの分別をもっておけば、そこまで困らないかなと思います。

(3)できる・出来る
 こちらもよくある表記のゆれです。基本は、先ほどと同様に「具体的な意味が薄い」というイメージから、ひらがな書きを推奨するものです。逆に「出来上がり」「出来栄え」などの具体的な名詞として用いられているものは、漢字書きを推奨といったところです。


コピペミスやタイプミスによる誤字、脱字、衍字(えんじ)

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作品名:想対性理論
作者:秋村有意
URL:現在掲載無

「人が悪いなぁ。まぁ、僕は西洋基質なものでね。これくらいは普通ですよ」
お茶を濁し、僕は空を見る。彼女と目線を合わせられない。
「そうですか、抱擁は構わないんですが、ちょうど私の帰宅時間と重なるものですから。素通りは出来ないでしょう?」
「ええその通りで。次回からは僕の部屋でしますよ」

(中略)

昔、とは言っても中学生時代の頃だ。僕には、友達がいた。いや友達というよりも、ただの話し相手だけだったようにも思う。彼はいつもも孤独で、何をするにも一人だった。例えば休み時間。彼は、話しかけようものなら、とんでもないことをお前にしてやるからなというようなオーラを出していた。それはまるっきり僕と一緒で、自己防御のようなものだ。

(1)体制
 先ほどもありました「体制/体勢」の同音異義語における変換問題です。変換機能のいたずらなので、あまり気にしなくてよいかと思います。

 ちなみに「世界の理の如く」とあったので、むしろ「体制(レジーム)」に近いと直感して読み流しそうになりました。冷静に考えると、ここはあくまで姿勢を崩したことの描写なので、「体勢(ケルパーハルツング)」かなと思います。

(2)西洋基質→西洋気質
 こちらはやや複雑で、同音異義語と見せかけて、実は「気質」と書いて「かたぎ」と読みます。ある特定の性質を典型的に持ち合わせていることを「◯◯かたぎ」とし、(なぜか)漢字書きでは「◯◯気質」と表記します。もともとは「◯◯形木」だったという語源俗解も理解の助けになるでしょう。具体的には「侍気質(さむらいかたぎ)」「職人気質(しょくにんかたぎ)」「昔気質(むかしかたぎ)」などです。

 一方で、「気質(きしつ)」と読むのは、特定の性質ではないときです。「彼の気質はおだやかだ」というときに「きしつ」と読むことになっています。むずかしいですね。

(3)もも
 余計に入ってしまったのを衍字(えんじ)と言ったりします。文なら衍文(えんぶん)。「衍」はむずかしい字ですが、余るという意味ですね。

 最近はよく「この場所にてにて開催された」のような複数字の衍字を見かけます。予測変換の都合で重なったのか、コピペの都合なのか、テキストエディターの都合なのか、消したり書いたりしているうちに残ったのか判明はしませんが、本当によくあります。


「読むということへの愛しさ」を持とう

 校正はコミュニケーションなので、本来であれば、ここで出た疑問に対して著者が応答することになります。「新婚半年はホヤホヤで行きます」とか、「と言ったは漢字書きです」とかですね。(繰り返しますが、著者さんから戻ってくるものがいちばん勉強になります)

 そして、できれば、答える前に、それでいいのかどうか一瞬でも考えてもらえて、「やっぱりここはホヤホヤだ! ホヤホヤ以外にない!」と確信していただいたり、「そうか! ここで私が書きたかったのは、アッツアツということだった! これじゃアツアツ感が足りてないかも!」と探求があったり、そういう意味がひとつでも生まれればいいなと思います。

 さいごに物書きのみなさんに向けて。

 もちろん校正者だからこそ知っている職能的な指摘(極端な例では「杮(こけら)落とし」が「柿(かき)落とし」になっているとか)もあれば、1文字ずつ愛を込めながら読み通せる者だからこそ出せるコメントもあります。

 校正者とのかかわりがないうちは、この記事に共感してくれるような、「文字」とか「ことば」とか「表現」とかを大切にしているほかの作家さんとタッグになって、お互いの作品を1文字ずつ愛しながらコメントし合えるとよいかもしれませんね。

 私自身の話で恐縮ですが、私が作家としてデビューする前は、たまたま職場にいた作家志望の声優さんと仕事のあとで必ずカフェに行って、お互いの作品について細かくフィードバックしていました。
 「お前はひろげた風呂敷をたたむのに時間がかかる作家なんだからさ! 応募枚数規定の多いところに出せよ! せっかく壮大な話なのに途中で窮屈になってもったいないよ!」みたいなことを、よく読んだ上で言い合ってました。

 「読むということへの愛しさ」もまた、この校正企画のなかで私が伝えたいことなのかもしれません。そのことに、みなさんの作品のおかげで気づけました。ご応募はたくさんいただけておりますので、公開校正・第二弾ができるよう、ご声援のほどよろしくお願い致します!

1. ↑ さらに重要な話をひろげると、「いう」問題はこれだけにとどまらず、「言う/云う」の使い分け問題があります。小説をよく読むかたは「云う」をけっこう目にするでしょう。いくつか漢語辞書などを眺めてみますと、「言う:(思ったことを)声にすること」「云う:他人の言ったことを引いて言うこと・口ごもって言うこと」のような使い分けがなされています。みなさんも手元の辞書をパラっと引いてみてください。
そして小説に戻ってみると、ときどき「他人の言葉/口ごもって言ったこと」でなくとも「云う」になっていることがあると思います。どちらがいいか(正しいか、かっこいいか、びしっとくるか)というのは、なにか厳密なルールがあるわけではなく、作家さんの感性によるものだということです。

2. ↑ わかりやすい例としては、みなさんも一度はあったであろう「からい/つらい」問題です。漢語では、しびれるからさが「麻」、刺すようなからさが「辣」、塩からいときは「咸」があります。一方で、つらいときは「苦」です。完全ではないにしろ、けっこうちゃんとした整理がしてあります。

3. ↑ 余談ですが、「しりもちをつく」は、お餅の連想からなのか「搗(つ)く」を用います。こむずかしい漢字で、もともとは穀物を杵(きね)で突くことを「舂く/臼搗く」(うすづく)というところから来ているようです。これ自体は古語ですが、現代でも用いられている「予定がかち合う」という表現も、杵と杵がぶつかることを「搗(か)ち合う」といっていたことの比喩なんですね。
このあたりは漢検1級のテキストをやっていると必然的に出会います。興味があるかたは、勉強してみるとおもしろい発見があるかもしれません。

4. ↑ 脱線しますが、みなさんも読んだことがあるものでいえば、中島敦さんの『山月記』は、もともと漢文だったものから作られたものなので、めちゃくちゃ漢文の素養たっぷりです。他にも、青空文庫で「不拘」で検索してみれば、いくつか用例がみつかると思います。

5. ↑ また余談ですが、ずいぶん前に、ベテランの校正者が「あり得ないミスが激増した!」と憤っておられて、どのようなミスかと尋ねたら、「細菌の傾向」のような変換ミスのことでした。私は携帯変換機能ネイティブ世代(?)なので淡々と修正するのですが、誤変換校正に慣れていない方は漏れてしまうことをおそれて結構イライラしてしまうのかなと感じます。
ただ、新しいところでは「OCR(機械による文字認識)の文字校正」という業務もあって、「曖昧」が「曖味」になっていたり、「入間」が「人間」になっていたり。確かに、これには私もイライラするので、そういう感覚なのかなと勝手な共感をしているところです。


*本記事は、2018年09月27日に「monokaki」に掲載された記事の再録です。