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あなたの「書きたい」気持ちを高める本|ジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』|monokaki編集部

こんにちは、「monokaki」編集部の碇本です。
「小説の書き方本を読む」の第二回です。前回の三浦しをん著『マナーはいらない 小説の書きかた講座』の記事 は大好評でした。読んでくださった皆さんありがとうございます。この連載は取り上げた「小説の書き方」本がどんなことを書いているのかをお伝えするものです。記事を読んでみて、なにか引っかかる部分や、自分に響いたという箇所があれば、ぜひ書籍を手に取ってもらえればと考えています。

第二回は「monokaki」で以前にも海猫沢めろんさんの連載『生き延びるためのめろんそーだん』で取り上げてもらったことのあるジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』についてです。
著者のジュリア・キャメロンは『ワシントンポスト』や『ローリングストーン』紙に寄稿していたライターでした。映画監督のマーティン・スコセッシと結婚したが離婚したものの、彼の映画作品に協力をしている脚本家でもあります。
やがて、アルコール依存症や薬物依存症になったことで妄想症や精神病となってしまい、文章を書くことができなくなってしまいました。しかし、それらの症状が寛解し、アーティストとして自由に生きるために、創作活動をする上で必要なものを友人にアドバイスするようになると、それが好評となってスクールを始めることになりました。それらをまとめたものが『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』です。

『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』には、一読するとスピリチュアルのようなことがたくさん出てくるのは、上記のような症状を経験したことも関係しているのでしょう。また、1948年生まれである著者は青春時代にヒッピー文化を体験しているはずです。
Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズが学生時代にユダヤ・キリスト教・イスラム教・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化に心酔していたのは有名な話です。アメリカの西海岸でのシリコンバレーで起きた、現在のGoogleやAppleなどのIT企業は原初を辿るとヒッピー文化と関連があるものや創業者が信奉者だったものが多いですよね。

 本書が最初に出版されたのは一九九二年のことだが、ほぼ十年近くたった現在でも、ベストセラーの上位に名を連ねるほどの人気ぶりをしめしている。自己啓発書としては、この十年でおそらくもっともよく売れている本の一つだろう。なぜそれほどの人気の高さを維持しているかというと、本書に掲載されているプログラムを実践した多くの人々が、その効果を公に認めているからである。

上記は『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』の訳者である菅靖彦氏のあとがきになります。
この書籍は、自己啓発書としても有名な一冊です。そして、ジュリア・キャメロンが読者を導く12週間のプログラムを実践することで効果が発揮されるものとなっています。
今回は自己啓発的な部分というよりも、小説を書きたいと思っている人の背中を押す言葉をできるだけピックアップして紹介できればと思います。そこにあるのは「monokaki」の理念である「書きたい気持ちに火がつく」に近いものだからです。

序文にはこんな文章があります。

 アートはイメージを駆使する活動だ。私たちは創造するために、内部の井戸からイメージを引き出す。創造の源であるこの内部の井戸は、たくさんの魚が放流された池に似ている。私たちはそこで大きな魚、小さな魚、太った魚、やせた魚などさまざまな魚を釣りあげ、調理する。アーティストである私たちは、そうした芸術の生態系を維持していかなければならない。もしそれを怠れば、私たちの創造の井戸は干上がるか、よどんでしまうだろう。
 長期の創作活動は、創作の井戸から多くのものを引き出す。井戸を使いすぎると、池の魚をとりすぎるのと同じように資源の減少を招く。そうなると、私たちは自分に必要なイメージを引き出せなくなり、作品は干上がってしまう。いざイメージのストックがなくなるまで、私たちはなかなかそれに気づけない。
 私たちはアーティストとして、自分の栄養を保つ方法を身につけなければならない。自分の中にある創造の資源を使うときには、意識してその補給にも気を配る必要がある。いってみれば、池に魚を補充するのだ。私はこれを、「創造の井戸を満たす」と呼んでいる。

「monokaki」も皆さんの創造の井戸を満たすきっかけや助けになればうれしいです。

自分の創造性をつぶさないために

 最初は誰でも未熟なのがあたりまえなのだ。それなのに、自分の未熟な作品を熟練したアーティストの傑作と比べたり、批判的な友人に見せたりするのは、自分の中の幼いアーティストを虐待するようなものである。
 創造性を妨げる障害を取り除くには、あせることなく、おおらかにゆっくりと進まなければならない。ここで追求しているのは、古い傷を癒すことであって、新しい傷を創造することではない。どうか背伸びをしないでもらいたい! 失敗は必要なのだ! つまずくのはあたりまえなのだ。まだあなたがよちよち歩きの段階にいることを自覚してほしい。私たちが自分自身に求めるべきなのは進歩であって、完璧さではない。

自分の作品をプロの作品と比べて落ち込んだことのある人は多いのではないでしょうか。それは自分の中の幼いアーティストへの虐待だと書かれています。また、はじめてばかりの時には、思い描いていたものと出来上がったものの差で続けていく気がしなくなってしまうこともあります。
でも、大丈夫です。最初からうまくいかないものです。誰かと比べる必要はありません。
そして、作品に完璧さを求めない。これは創作する際にはほんとうに重要なことですね。
王谷晶さん連載『おもしろいって何ですか?』の「「推敲」って何ですか?」でも、このように書かれていました。

よいか、この世の誰も完璧な小説など書けない。私にも諸君にも、過去の世界の文豪だってそうだ。だから完璧を目指すなかれ。「いいあんばい」「だいぶイケてる」くらいを到達点とし、原稿を完成させ、そして新しい作品をどんどん作ろう

自分自身の創造性を育んでいくために、時には他人が障害になることもあります。

 創造性を養う基本は自分自身を育てることにある。私たちは自分を育てることを通して、大いなる創造主との絆を育むのだ。そうしたつながりを通して、創造性が開花し、道が見えてくる。そうしたら、大いなる創造主を信頼し、歩んでいかなければならない。
 人にやさしくするのはかまわないが、強い意志をもたなければならない。友人のためにできる最良のことは、自分自身の創造性を回復した人間のモデルになることである。彼らの恐れや迷いに惑わされてはならない。
 創造性の邪魔をするもう一つの障害は、「クレイジーメーカー」である。クレージーメーカーとは、嵐の目を生み出すタイプの人をさす。この性格の持ち主は、往々にしてカリスマ的で、人を引きつけ、豊かな創意に富み、すばらしい説得力をもっている。だが、周辺にいる創造的な人間にとって、彼らはとてつもなく迷惑な存在だ。
 カリスマ的だが抑制がきかず、問題ばかりもっていて解決策をもたない人間。あなたのまわりにも、そんなタイプがいるだろう。
 クレイジーメーカーは、あなたの全人生を肩代わりしてしまえるほどの力をもつ。あくせくしながら生きている人たちにとって、彼らは抗いがたい魅力を持っている。そのような人物に巻き込まれた経験がある方になら、私が何を言わんとしているかわかってもらえるだろう。

「クレイジーメーカー」というのは初めて聞いた言葉ですが、こういう人って確かにいますよね。その力の及ぶ範囲はその人ぞれぞれで違うものですが、巻き込まれるとかなりやっかいです。私も心当たりがあります。

この部分を読んだ時に前回の三浦しをんさんの『マナーはいらない 小説の書きかた講座』での「的確なアドバイスができるひとは、そうそういない」と言われていたことを思い出しました。
自分の作品をよりよくできるのは自分だけ。それゆえにどういう人と付き合うべきかというのも大事なことになります。
付き合う人によって、自分の創造性が壊されてしまうこともあるのです。この『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』を読んでいくとかなり他者との関係性の話がでてきます。コミュニケーションで悩んでいる人も参考になるかもしれません。


ひとりになる時間をつくろう

 アートとは、自らを社会にさらす行為である。アートは物事に光を当て、私たちを照らし出す。そして、私たちの中に残っている暗闇に一条の光を当て、「見えるでしょう?」と語りかける。
(中略)
 真摯な表現はクロゼットを開け、地下室や屋根裏に新しい風を送り込み、癒しをもたらす。しかし、傷は癒される前に、まず人目にさらさなければならない。

「自分を社会にさらす行為」や「表現する自由」は皆さんにあります同時に作品を発表すれば、批判されることもあります。この部分で『おもしろいって何ですか?』の「「自由」って何ですか?」での表現者の責任について思い出しました。

なんだよ小説は自由じゃねえのかよ、と怒るむきもあると思うが、自由というのは誰からも批判や非難されないことではない。自由に物語を生み出せば、自由に批判を受けることがある。作品を褒めるのも批判するのもまた、読み手の持つ自由だからだ。小説は自由で、どんなにインモラルでヤバい話も書ける。その代り、発表したら反応が来る。それが甘いものか辛いものかは、作者にはコントロールできないのだ。そして自分の小説が引き起こした結果には、自分で責任を取る必要がある。
これは自作の小説だけでなく、自分が好きな作品にも当てはまる。大好きな作品が批判に晒されていたらそれは当然嫌な気持ちになるが、それは決して「表現の自由を制限する」行為ではない。小説という自由と批判という自由ががっぷり組み合っている状態なのだ。私はそれを、美しいと感じる。その恐ろしくも美しいバトルフィールドに立つのが、表現で銭を稼ぐということなのだ

このことはどこかに覚えておいてほしいものです。同時に私たち編集部もしっかり意識していこうと思います。
それまでは当たり前だったことや常識の変化がいちじるしく変化しています。そのことをまったく無視して創作はできないので、いろんなものをアップデートしていく勇気は必要になっています。わかった上でやるかやらないかというのと、わかっていなくてやってしまうのはまったく違うことです。

 最初の草案は、きわめてやさしく洞察力のある人以外には、見せないほうがいい。芽を出そうとしている作品を世に送り出すには、ときには他のアーティストたちの手を借りる必要もある。ただし、作品の芽を大きく育てようとせず、単に厳しい目を向けるだけの批評や未熟な批評は、作品をだめにしてしまいかねない。
 私たちはアーティストとしてどんな批評を受けるかを選べない。まわりの人やプロの批評家たちを、もっと健全に、もっとやさしく、もっと建設的にさせることもできない。

批評によって作品がダメになるケースについて説かれています。Webに小説をアップしている人は、批評や過度な批判を受けることもあるでしょう。「単に厳しい目を向けるだけ」の批評でないかどうか、注意して付き合う必要がありそうです。
批評と批判は異なるものです。よい批評は創作者にとって次なるステップへの道しるべになります。気になった作品に対して批評が書かれていたら作品を読んで、批評を読むことで作品をより深く考えることもできるようになります。 しかし、批判はただ作者を傷つけるだけです。

 なによりもまず、ひとりになることを心がけよう。あなたは静かな時間に浸る必要がある。自分自身にチェック・インする習慣を身につけよう。一日数回、ただ休息をとり、自分がどう感じているかを自問し、その答えに耳を傾けてみればいいのだ。その場合、親切に答えることが大切だ。もしあなたが何かを一生懸命している最中なら、のちに自分自身に休息を与え、もてなしてやる約束をすればいい。
 そう、私は自分自身を赤ん坊のようにやさしく扱うことを要求しているのだ。私たちは、アーティストになるためには、タフで、冷笑的で、知的かつ冷淡でなければならないと信じきっている。そんなことは批評家に任せておけばよい。もともと創造的なあなたは、いじめられるときよりもおだてられるときのほうがより生産的になれるのだ。

引き続きになりますが、ひとりになる時間を作ることを著者は提案しています。読みながら、こんまりの片づけ術の人間バージョンみたいだなと思ったりしました。
自分がやりたいことをするためには環境を整えていく必要がどうしてもでてくるので、まずは人間関係とか付き合いが変わってくるのも頷けます。
ひとりの時間に自分の内面と向き合い、自分自身と出会っていきましょう

 自分自身の輪郭がはっきりし、自分の価値観や人生の状況が鮮明になってくると、私たちは瞬間に生きることができるようになる。私たちが創造的な自分と出会うのは、そのような場所においてである。孤独であることの自由を味わえるようになるまでは、創造的な自分とつながることはできない。たまたま創造的な自分に巻き込まれることはあっても、それは出会いとは呼べないものだ。
 アートは出会いの瞬間に横たわっている。私たちは自分の真実に出会い、自分自身と出会う。自分自身と出会うということは、独自の自己表現をもつということでもある。そのとき、私たちは唯一無二のかけがえのない存在となる。そうした独自性から、芸術は誕生する。
 人生や創作への道で行き詰まったら、飛躍したいとあせるよりも、一週間、活字を読まないでいることのほうが効果的だ。
(中略) 外からくる情報をシャットアウトすると、私たちはふたたび感覚の世界に連れ戻される。視界を遮る新聞がなければ、通勤電車は動くギャラリーになるし、没頭する小説や、感覚を麻痺させるテレビがなければ、夜は様相を一転して広大なサバンナと化す。このように外からの刺激を断つことが、心の内側にある創造の井戸を満たすことにつながるというのは皮肉な話である。

創作に行き詰まったらというのは、「生き延びるためのめろんそーだん」の「Q.「本当に好きなこと」が何かわからなくなりました」でめろんさんが相談に対して答えてくれた「ライターズブロック」のことですね。
不調になった時にこの本を読み返してエクササイズを実践することで、不調から書ける状態に復帰したという話がありました。

本書を読んでいるといくつも自分の中にあるものが少しずつ揺さぶられていく感覚がありました 。めろんさんが言われていたのはこのことなんだと、わかった気がします。
例えば、誰かに教えるという行為は基礎的なことから始めるので、教えている人自身がそのことを再認識して、行き詰まりを突破するきっかけになるという話はよく聞きますが、それにも近い部分があるように感じました。


自分を大切にすることが要求される、それがアート

 アーティストは何もしないでいる時間をもたなければならない。こうした時間をもつ権利を守るには、勇気や信念、さらには切り替えの能力がいる。
 ひとりで静かに過ごしていると、家族や友人には引きこもりと映り、心配の種となる。だが、アーティストにとって、引きこもりは必要である。創造のための孤独が確保されないと、私たちの中のアーティストはイライラして怒りをつのらせ、不機嫌になる。そのような状態が続けば、やがて意気消沈して憂うつになり、他人に敵意を抱くようになる。

なんにもしない時間。考えている時間は他者から見れば、ぐうたらしていたり、さぼっているように見えるかもしれません。しかし、創作者にはその時間が必要になってきます。
コロナ禍でふらっと遠出はできないですが、散歩がてら、自転車でも、家から少し離れた場所にいってなにもしないでのんびりするのもいいですよね。私は目的なく数時間歩くことでストレス発散しています

 創造的に行き詰まっている人、創造的でありたいと願いながら、その渇望を満たすことを拒み、欠乏感だけがふくれ上がっている人にとって、本物のささやかなぜいたくは、創造性の回復に大きな効果を発揮する。ここで重要なのは「本物」ということ。アートは余裕や、充分に与えられているという信念のもとに生み出されるものなので、豊かさの感覚を求めて気ままに振る舞うことが大切である。
 私たちは行き詰まると、すぐにそれをお金がないせいにしたがる。だが、お金がないことは決して本当の障害ではない。実際に障害となっているのは、自分自身の圧迫感や無力感なのだ。アートは選択する力をもつよう要求する。それはもっとも基本的なレベルで、「自分を大切にする」と選択することである。

グハッ。胸につきさるフレーズが。お金のせいに、仕事のせいに、いろんなもののせいにして「できない理由」を作って先延ばししてしまうことってありますよね。でも、それって傷つきたくないという思いがあるからですが、本当のところでは「自分を大切」にしてはいないことになっているのです。
なにかのせいにするのに慣れてしまうと言い訳だけがうまくなってしまいます。言い訳がうまくならないためには現状をしっかり把握する必要があります。


創造の泉を枯らさないために、インプットを続けよう

 アートとは、心の中の創造の源にチューニングを合わせ、そこで聞いたものを「降ろす」行為である。あたかも、世界中のあらゆる物語、絵画、音楽、パフォーマンスが意識の表面化に生きているかのようだ。それらは地下水のように、私たちを貫いて流れており、心の奥に降りていくことによって、触れることができる。アーティストである私たちの役割は、その創造の泉をわき出させることだ。それは、想像したものを作るというより、どこからか降りてくる声を聞くことに似ている。

よく創作者が「降りてきた」という言い方をしますよね。それはどこか巫女(シャーマン)的なものを感じることがあります。自分の中に流れている地下水を汲みに「降りていく」と考えるともう少しリアリティがあるかもしれませんね。その地下水はきっとあなたが今まで観たり、聴いたり、読んだり、感じてきたものです
自分の創造の泉をできるだけ豊かにするために、インプットを欠かさず続けたいものです。

 運動選手に傷はつきものだが、アーティストの人生にも、いろいろな傷がついて回る。それらは試合にも影響を及ぼす。大切なのは、それらを乗り越えて生き延び、自分をどのようにして癒してやったらいいかを学ぶことである。アーティストとして受けた傷は、恥ずかしがらずに、堂々と受け入れなければならない。それが傷を癒す最初のステップとなる。
 傷の原因は外部にあるとはかぎらない。創造性を阻まれた人たちは、恐れや自信のなさから、あるいは余裕のなさから、チャンスを与えられても足踏みし、自分で自分に傷を負わせてしまうことが少ない。

特に小説を公開していると、思わぬ場面で傷つくことがあると思います。自分で自分にダメ出ししてしまってどんどん書けなくなる人もいるかもしれませんそんな傷を癒すには、まずその傷を受け入れることです
自分の中の創造の火を消してしまわないように、道しるべとしての目標を掲げてみるのも良い方法かもしれません。デビューするとか、なになに賞を取るだとか、閲覧数やランキングでトップになるなどです。
目標を持つのはいいことですが、それによって傷ついたりすることもあります。例えば、ランキングが上らなかったり、受賞できなかったり、その場合は、自分を癒すことも大切なことになってきます

 創造性は瞬間の中に入り込むことによって生まれる。瞬間の中にいるとき、私たちは時間を超越する。創造性の回復に打ち込んでいれば、そのことがわかってくる。満足のいくアーティスト・デートをしたあと、「子どもになったような気がした」と報告する人が多い。子どもたちは自意識にしばられていない。創造性に流れに入り込めば、私たちも自意識から解放される。

本書では基本ツールとして、二つの重要なものとしてモーニング・ページとアーティスト・デートというものを用いることを推奨しています。

 モーニング・ページとはなんだろう? ひと言でいうなら、三ページほどの手書きの文章であり、意識の流れをありのままにつづったものだ。
 アーティスト・デートとは、あなた自身の創造的な心(それを本書では、内部のアーティストと呼ぶ)を育むために特別に確保される、週二時間ほどの時間のかたまりである。基本になるのはそのものずばり、デートだ。とはいっても、連れがいるわけではない。それは、あなたと内部のアーティスト、すなわち自分の内部にいる創造的な子どもとのデートなのだ。
 この二つのツールの組み合わせを、無線の受信機と送信機の組み合わせとして考えてみよう。つまり、出て入ってくるという双方向のプロセスである。

上記にあるモーニング・ページは「生き延びるためのめろんそーだん」の「Q.ターゲット層ってどう決めればいいですか?」において書かれていた「とにかく15分ほど、ノンストップで、手を止めず、意味のないことでもいいので、頭に浮かんだものをまったく検閲せずにかきまくりましょう。 誰も見ていないし、批評もしないので、とにかく自分の頭のスイッチを切ってゼロ状態で書きまくりましょう。」というものに通じるものがありますね。

アーティスト・デートというのは自分の内なる無邪気な魂であったり、社会性を帯びる前の子どものような自由さとの対話だと考えることができます。この辺りが瞑想などとつながっていると感じます。

創作していると時間があっという間に経っていることがあります。もう、二時間も経ったのか見たいな経験はみなさんにもあるはずです。その時、創作者は「時間を超越」しているからかもしれませんね。
同じように自分が好きな作品を読んだり観たりしていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。好きなものに触れている時も「時間を超越」していると言えるかもしれません。


創作にまつわる怒りや恐怖心、そして競争心の危険性

 長時間、創作活動に打ち込むために必要なのは、鍛錬ではなく、熱意である。熱意とは感情の高ぶりではない。創造のプロセスに進んで身を任せ、周囲のすべてのものに創造性が働いていることを受け入れる姿勢を表している。
 ギリシャ語で「神に満たされる」という意味の熱意は、尽きることなく脈々と流れるエネルギーが、生命の流れに注ぎ込まれている状態である。それは仕事ではなく遊びに根を下ろしている、私たちの中のアーティストは、頭の固い兵隊ではなく幼児であり、私たちの遊び仲間である。遊び仲間との絆は、義務ではなく、楽しい遊びによって培われる。
心おきなく創作に取りかかるには、創作にまつわる怨恨(怒り)や抵抗(恐怖心)から自由でなければならない。つまり、心の奥のわだかまりがなくならないと、創作がはかどらないということ。これまでの借りを返してやろうという報復の気持ちも、やはり創作の妨げになる。こうした心の障害は決して不可解なものではない。悪意に満ちているように思えるまわりの者たちに対する、わかりやすい防衛なのである。

本気で遊んでいる時には時間はあっという間に過ぎていきます創作も同じようなことが起こります。そこにはただ無心で楽しんでいる状態があるからなのでしょう。それを熱意だと言い換えることもできるのかもしれません。

イヤな仕事をしている二時間と、好きな創作をしている二時間は同じ時間の幅であっても、本人の体感時間は違うのではないでしょうか?
嫌な仕事をしている二時間は三時間にも四時間にも感じられ、好きな創作をしている二時間は一時間にも三十分にも感じられます。
ある種の創作者の方々が年齢よりも若々しく見える理由は好きなことをしている時間が多いので、体感時間が少なく年を取っていないのかもと考えたことがあります。創作すると若返る行為もあるかもしれませんね。逆に、誰かを見返してやろうというモチベーションは逆に創作の妨げになってしまうと書いています。もしかすると、創作をするさいに怨念(怒り)や抵抗(恐怖心)を持っていると老けてしまうかも。たのしいことをやりたいことをしていきたいものです。

 名声は、有名になることがアートの目的であるかのように思わせる。名声と成功は同じものではない。私たちも、心の奥では努力の果てに成功があると知っている。しかし名声を求めるのも、一種の嗜癖であり、つねに満たされない思いを残す。
 名声は精神的な麻薬である。それは芸術作品の副産物としてもたらされることが多いが、核廃棄物のように、きわめて危険な副産物にもなりうる。名声への将来を心配する「不安症候群」を生み出す。というのも、名声にこだわる人は、作品の出来を心配するのではなく、作品が他人にどう見られるかを心配するからだ。
 競争心は、創造性を妨げる多くの障害の足元に横たわっている。想像に携わる者が焦点を当てなければならないのは、今、何が流行しているかではなく、自分の内面が何を語りたがっているかである。作品が時代に先行していようが、どう評価されていようが、注目されるときには注目されるのだ。
 他人が先に行っていようが、どう評価されていようが、そんなことは考えるだけ無駄である。

「名声は精神的な麻薬である」ってすごいフレーズきましたね。今、こういうジャンルが流行っているから書こうというのは戦略としては正しいのですが、そこでは一番にはなりにくいものです。最初にそのジャンルで成功した人がその後も幅を利かせていくことはよくあります。例えば、今からユーチューバーになっても登録数が100万人行くかというと正直難しいですよね。

流行しているジャンルはすでにレッドオーシャンです。そこで戦うのか、競争相手はさほど多くはないが、自分が好きなジャンルでやっていく(その場合はブルーオーシャンと言います)のがいいのか、という判断も大事になってきます。
自分の内面が何を語りたがっているのか、耳を澄ましてみましょう。本当にやりたかったことがきっと見つかるはずです。


創作を続けられる環境を作っていこう

 東洋の瞑想法は体を使って自分の内面を探る方法であり、創造性を回復するための有効な武器になる。だが、瞑想法だけを取り入れると、至福や精神的な高揚を追い求めるあまり、体をないがしろにするきらいがある。その点、種々の運動は、霊的な方法が招きやすい欠点を補うことができる。
 創造的に生きるには、自分を表現するための充分なエネルギーが必要だ。エネルギーを高める一つの手段として、一日に二十分程度、散歩してみてはどうだろう。歩くという行為は私たちを「今」に連れ出し、妄想に歯止めをかける役割を果たす。その意味で、散歩は「歩く瞑想」になりうるのだ。目的はあくまでも心のストレッチングであり、結果的には体のフィットネスになっても、それを強調する必要はない。

歩いている時にアイデアが沸いてきたり、降りてくるという話があります。ほかにはお風呂に浸かっていたり、料理をしている時なども同じようなことがあると聞きますよね。
歩いている時には、無心になっていて無意識に体を動かしているだけの状態になることがあります。たぶん、それが「歩く瞑想」状態なのでしょう。意識が戻ってくるとなぜかそれまで結びつかなかったものが結びついたり、こういうことをしてみたいというアイデアが沸いてきた経験があります。
リラックスしている状態になった時にアイデアは沸きやすいのではないでしょうか? 皆さんも自分に一番合う「○○瞑想」を見つけてみてください。

 自分の道をふさぐ障害から逃れたければ、自分の意見を軽々しく明かさず、疑り深い人たちの間では沈黙を守り、自分を理解してくれる人を正確に見抜き、その人たちだけに自分の考えを述べる術を学ばなければならない。
 そのために、リストを作ってみたらどうだろう。自分を応援してくれる友人のリストと、自分の足を引っ張ろうとする友人のリストである。後者の友人たちを「濡れた毛布」と名づけよう。
 あなたは自分自身を「乾いた毛布」で包まなければならない。ふわふわした暖かい毛布が必要なのだ。あなたに冷水を浴びせかけるような人たちと決してかかわってはならない。そういう人たちの「善意」や、「あなたのためを思って」という言葉を信じないようにしよう。

応援してくれる人を残し、足を引っ張る人とは思い切って関わりをやめる。やっぱり人間関係における「こんまりメソッド」じゃんって読みながら言ってしまいました。
世界へ自分の作品を広げていくこと、同時に自分の中にアイデアをとどめておくこと、反対なようなものですが第一線で活躍している人はそれをしっかりしているように思えます。そのためには自分が創作を続けられる環境を意識的に作っていかないといけないのかもしれませんね。そうやって、やれなかったことをやれるようにする準備や気持ちに持っていくのがこの本の一番大事な部分かもしれません。

 創造性は人生そのものと同じように暗闇ではじまる。そのことをよく知っておく必要がある。私たちはよく思考を光にたとえようとする。「そのとき、頭の中にぱっと電気がついて、ひらめいたんだ!」。たしかに、アイデアは閃光のようなひらめきとなって訪れる。そのようなひらめきが、ときにまぶしすぎると感じられるのも嘘ではない。けれども、ひらめきは突然、わいてくるわけではない。私たちの心の暗闇の中で、出ていく機会をじっとうかがう、潜伏期というものをもっているのだ。
 どんなに自分を抑え、夢を見ないでいようとしても、夢の炎は消えてしまうことはない。埋(うず)み火が、凍てついた魂の中でくすぶりつづけ、燃えあがるときを待っているのだ。退屈な会議の間に書くでたらめないたずら書き、オフィスの掲示板に貼りつけられたばかげたカード、上司につけた茶目っ気たっぷりのあだ名、多すぎるくらい植えられた花……こうしたものはみな、魂の中でくすぶりつづけている埋み火のなせるわざだといっていいだろう。

あなたの中の夢の火が照らす方向はどこでしょうか? みんな向かっているから、人気があるからという場所へ向かう必要は正直ないと思います。
自分が進みたい場所が今は暗闇でも、進んでいけば新しいフロンティアが待っているかもしれません。小説を読んで書いていきましょう。


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新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。
著者:ジュリア・キャメロン 訳者:菅靖彦 サンマーク出版
本書は、わたしたちの内側に秘められた「創造的な子ども」を見出し、育て、「ずっとやりたかったこと」をやって創造的に生きるための具体的方法論です。
ミリオンセラー作家、画家、有名俳優、映画『タクシードライバー』の監督マーティン・スコセッシなども実践する本書のメソッドは、いわゆる「アーティスト」はもちろん、毎日をもっと創造的に生きたいすべての人に役立ちます。

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