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あなたの作家としての「語り(ナラティヴ)」を鍛えてくれる本|アーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』|monokaki編集部

こんにちは、「monokaki」編集部の碇本です。

「小説の書き方本を読む」の第十一回目です。
前回のパトリシア・ハイスミス著『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』では小説を書く際のアイデアについて、さらにそこからどう発展させて執筆するのかに悩んでいる人には参考になったのではないでしょうか。

この連載は取り上げた書籍の一部を紹介する形になっています。そこでなにか引っかかる部分や、自分に響いたという箇所があれば、ぜひ記事を読むだけではなく、書籍を手に取ってもらえればと考えています。

第十一回はアーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』についてです。日本では『ゲド戦記』の著者としても知られているル=グウィンの執筆ワークショップをまとめた一冊となっています。
アーシュラ・K・ル=グウィンは1962年に短編『四月は巴里』で作家デビューし、1969年発表の両性具有の異星人と地球人との接触を描いた『闇の左手』でヒューゴー賞、ネビュラ賞を同時受賞したことで世界的にも広く知られるようになりました。SF界の女王と称され、また「西の善き魔女」というあだ名もあるほどの作家です。2018年に88歳で亡くなっており、2021年、彼女を記念した「アーシュラ・K・ル=グウィン賞」が設立されています。

 この本は、お話を語る人たち、つまり物語作家のための手引きだ。
 前もって言っておきたいが、本書は初心者向けの書籍ではない。本来の対象は、もう自作の執筆に励んでいる人たちである。
 十五年、いやもっと前か、わたしの体験型講座(ワークショップ)に集まってくれた生徒諸君は、みんなひたむきで才能もある書き手だったが、セミコロンなどの句読点を敬遠して使えず、語り手の視点(POV)と情景描写を混同しがちだった。そもそも一同が大海へ船で漕ぎ出す前に必要だったのは、コツを知ること、自分の技巧を磨くこと、それなりの航海技術を身につけることだったのだ。そこで一九九六年、わたしは「文体の舵をとること(ステアリング・ザ・クラフト)」というワークショップを立ち上げて、文体の胸躍る側面、つまり本当に魅力的なもの――句読点、文の長さ、文法などに焦点を当てることにしたのである。[〈クラフト〉には、船と執筆技巧の意味がかけてある]

【本文P6より】

 問題着手のちょっと前に、各練習問題の活用の手引きについても意識を向けてほしい。見た目ほど簡単なものではないこともある。手引きに沿えば、練習問題も役立つことだろう。
 本書をひとりで使うのなら、きちんと前から読み進めて、練習問題も順番通りに取り組んでいくのがおすすめだ。そして練習問題に取り組んで、多かれ少なかれ満足な出来になったのなら、いったん横に置いて、しばらくのあいだ、 もう見ないようにすること。書き上げたばかりの自作に対する自分の判断なんて信用できないというのが、作家における数少ない常識のひとつだ。実際に少なくとも一日二日は空けてみないと、その欠点と長所が見えてこない。
 それから自作を再読するときには、好意的で前向きながらも批判的な目を向けつつ、書き直しも念頭に置いておくことだ。練習問題について特別な注意点が記されている場合は、その点を意識するといい。そして作品を声に出して読み上げること。口に出して耳で聞けば、リズムとしてぎこちないところや粗がわかってくるし、会話を自然で生き生きとしたものにする手助けにもなる。ふつうは、冗長なもの、ぶざまなもの、 あやふやなもの、不必要なもの、くどくどしいもの、ぞんざいなものなもの――つまり、歩調を乱すところや効果の不十分なところを探すといい。それから、機能しているところを見つけ出して、評価した上で、もっと引き上げられるかどうかを確かめるのだ。

【本文P14より】

今回取り上げる『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』は冒頭でル=グウィンが書いているように初心者向けのものではありません
原書が英語であり、「英文」の文体やリズムについての文章の手ほどきになっていますが、日本語で文章を書く時にも活かせる内容になっています。実践的な部分もあるので、執筆をしてきて壁にぶつかっている人やこの先に行きたい人にとってかなり有効な一冊です。
ただ読むだけではなく、各章ごとに提示される練習問題をこなしていくことであなたの筆力は確実にあがるはずです。
今回練習問題はほとんど取り上げません。興味がある人はぜひ本書を手に取って、練習問題に挑戦してみてください。

 本書は、物語の作り方や発想法を教える本というよりも、本邦のいわゆる文章読本に近い。日本では谷崎潤一郎をはじめ、川端康成や井上ひさし、丸谷才一らが、古今の文章を引用しながらその文の書き方を解いているように、ル=グウィンもまた、実例としてさまざまな文芸作品を引きながら文体の妙味を解説している。著者自身の「はじめに」にもある通り、文のひびきや視点人物、語り手の人称など、文体の制御に関する要点を(中級者のつまずきやすい)物語るという行為の基本要素として焦点に入れつつ、キプリング、トウェイン、オースティン、ストウ、ウルフ、ディケンズ、トールキン、ハーディ、ブロンテなど英米文学の錚々たる作家たちを例にその技巧を説明してみせる。そして比較文学の観点でも面白いのは、 こうした抜粋からわかるル=グウィンの文芸趣味がかの夏目漱石『文学論』とも重なり合う ことで、(多少の意図は異なれど) 引用箇所が重なるところさえある。また漱石の文学論がその実、小説の描写となる文体の読み解きでもあったのと同様に、各種名文を読み解いていく ル=グウィンの記述からはその文学観もうかがえる。そしてこうした名作の抜粋と解説は海外文芸を読むにあたっても有益であり、一般の読者のみならず、海外文芸を訳そうという人たちにも、本書は文芸の文体を読み進めるためのガイドブックとして役立ってくれよう。

【訳者解説P241-242より】

巻末にある翻訳をされた大久保ゆうさんの訳者解説にこう書かれているように、文章読本でありながらもブックガイドにもなっています。各章には「実例」という形でル=グウィンの解説つきで様々な作家の文章が短いながら引用されており、読めるようになっています。
これをきっかけにして取り上げた作家の作品を読んでみるのも素晴らしい読書体験になるはずです。もっと上を目指したいと思っている物書き志望者にはぜひオススメしたい一冊です。


「第1章 自分のぶんのひびき」「第2章 句読点と文法」

「第1章 自分の文のひびき」

 語りの文章の主な役割は、次の文へとつなぐこと――物語の歩みを止めないことだ。前へ進む流れ、歩調、リズムとは、本書でこれから何度も立ち返る語である。歩調と流れは、何よりもリズムに左右される。そして自分の文体のリズムを実感して制御する第一の手段が、文に対する聴力――文のひびきに耳を澄ませることなのだ。
 動作や思考を伝えることだけが、物語のなすべきことなのではない。物語は言葉から生まれる。言葉は音楽さながらにそれ自体で歓喜を表現できる上に、実際そうなるものだ。うきうきするひびきを生み出しうる文は、詩のみならず。ここから揚げる四つの実例で起こっていることを、しっかり意識してほしい。(声に出して読むこと! 大声で読み上げること!)

【本文P23より】

第1章は「文(言葉)」のひびきについて取り上げています。すべての出発点であり、文章の吟味とは「文のひびき」が正しいのか、ということだとル=グウィンは書いています。つまり基礎中の基礎ということです。
この箇所を読んでいると以前「物書きの隣人」でインタビューさせてもらった翻訳家の斎藤真理子さんが言われたことを思い出しました。

斎藤:「文体」と「内容」という、二つの側面があります。
文体については、音やリズムをつかむために、最初に2回音読します。文章のさまざまな癖、意図的にやっていることかどうかなども、音として読むとつかめる場合があるので。作品によってはまず手書きで訳すこともあるんですが、音読も手書きもある意味、身体を使っていますよね。目だけで訳すのではなく身体の他の部分を使うことが、私の場合はリズムをつかむために役立っているようです。校正が出て仕上げる際にも、音読でリズムを確かめながら直します。

「心に埋めたものが流れ出す」小説だからできること

斎藤さんも書いた文章を声に出して読むという話をしています。目だけを使って書くのではなく、口や耳も使うことで文章のリズムに違和感がないのかを確かめることができます
もし、執筆する際に音読をしたことがない人がいたらやってみてください。実際に声に出してみると文章の長さであったり、使っている単語に違和感がないのかが体感でわかってくるようになるはずです。

章タイトルに関連した事柄をル=グウィンが自身の作家としての経験から書いたあとには、「実例」として語呂のいいリズムやうきうきする言い回しのある小説を紹介するページが続きます。
第1章ではラドヤード・キプリング『どうしてサイはあんな皮なの』、マーク・トウェイン『その名も高きキャラヴェラス群の跳び蛙』、ゾラ・ニール・ハーストン『彼らの目は神を見ていた』、モリー・グロス『馬の心』の四作品を取り上げています。
その後、さらに「読書案内」でオススメの小説の紹介もあります。この一冊がブックガイドとしても重宝できることがわかります。
たくさん書きたい人はたくさん読むしかありません。もちろん、自分が好きで書きたいジャンルを読むのも大事ですが、古典と呼ばれる作品を知ることは作家としての底力を上げてくれるものになります。
例えば200冊の小説を読んでいる人がオススメするレビューと2000冊の小説を読んでいる人がオススメするレビューではどちらが信憑性があると思いますか?
これは小説に限られたことではありません。何か新しいと思えるものを閃いたとしても、そのアイデアは大昔にすでに誰かがやっていたということはよくあることです。知らずにやってしまうことと知った上でその可能性をアップデートすることはまったく違います。

<練習問題①>文はうきうきと

問1:
一段落〜一ページで、声に出して読むための語り(ナラティヴ)の文を書いてみよう。
その際、オノマトペ、頭韻、繰り返し表現、リズムの効果、造語や自作の名称、方言など、ひびきとして効果があるものは何でもない好きに使っていい――ただし脚韻や韻律は使用不可。

【本文31-32Pより】

章の最後にはこのように練習問題が出てきます。ぜひこの書籍を手にしてもらい、練習問題をご自身で書いてみてほしいです。筆力アップも期待できますし、ル=グウィンが書いていることもより深くわかってくるようになるはずです。
もともとは小説教室で行われたワークショップなので、練習問題を書き上げた後にグループと個人それぞれでどうやりとりをしていくかも書かれています。また、この課題をすることで執筆上の問題点や訓練する理由もル=グウィンが教えてくれています。
ひとりでもグループでもいいのでぜひ練習問題をやってみてください。
これが基本的な章の流れとなっています。


「第2章 句読点と文法」

 文章の規範は、会話の基準とは異なる。 そうでなくてはならない。なぜなら、読む際には(出来損ないの文や誤用された言葉でさえもわかりやすくなる)話し手の声も表情も抑揚もなくなるからだ。あるのは言葉だけ。わかりやすいことが必須となる。文章上で物事を他人にもわかりやすくするには、対面での会話以上にたくさんの努力が必要なのだ。
 というわけで、インターネット上の執筆にはいくつか落とし穴があり、電子メールやブログ、ブログの返信などでそれが特に顕著となる。電子機器を介したコミュニケーションは機械のおかげで簡単かつ迅速となったが、人を過(あやま)たせる。人々はせかせかと書き、書いたものを読み直しもせず、誤読し誤読され、口論になり相手を侮辱して、悪口の言い合いになる。自分の書いたものが会話さながらにそのまま理解されるものと思い込んでいるのがその原因だ。
 真意を明らかにせずとも他人が理解してくれるのは当然、という考え方は子どもじみている。自己表現とコミュニケーションを混同するのはかなり危ういことだ。
 読者には言葉しかない。顔文字(エモーティコン)も、言葉だけでは感情と意図が伝わらない時の、物悲しくもささかやな申し訳だ。ネットを使うのは簡単だが、そこで自分の真意を伝える難しさは、まさに印刷物の上と変わりない。それ以上に難しいこともあるだろう。どうやら、紙面よりも画面上の読書のほうが、いっそうせわしなく不注意になる人がおおぜいいるようだから。

【本文P44-45より】

SNSで毎日のようにいろんなことで炎上しているのを見るようになって久しいですが、ここでル=グウィンが書いていることもそれらにも当てはまるものではないでしょうか。
パソコンやスマホで簡単に文章が書けて、時間もかからずアップすることができるようになったことで起きている弊害かもしれません。どこかで自分が書いているものは他人にも読めて当然だと思ってしまう部分は私にも当てはまります。しかし、前後の文脈があって発言したものであっても、見ている(読んでいる)相手はその前後をちゃんと確認してくれるわけではありません。そのため文脈がわからずに見たものだけで判断するため、誤解を生んだり、真逆の意味で捉えられてしまうことがあります。
簡単に文章が書けるということはとてもありがたいことですが、やはり書いてすぐにアップしたり相手に送ったりせずに、少し時間をおいて客観的に自分の文章を読んで確認するということをクセづけることが炎上などトラブルを防ぐ一番いい方法になると思います。


「第3章 文の長さと複雑な構文」「第4章 繰り返し表現」

「第3章 文の長さと複雑な構文」

 文とは謎に満ちた存在であるから、ここではそれが何かと説くのではなく、その機能だけを話すこととしたい。
 語りにおける文は、次の文へとつなぐことが主なつとめである。
 この気づかれにくい基本となる役割のほかにももちろん、聴覚・知覚・美意識・脅威・迫力の上でできることが数限りなくあるのが語りの文だ。そのために必要なのが、まずひとつの性質――〈一貫性(コヒアランス)〉である。文のつじつまが合っていないといけないわけだ。
 前後がかみ合わずばらばらで、単なる寄せ集めの文になってしまうと、まとまりもできないので、次の文へと途切れなく続いていかない。文法がしっかりした文は、整備のしっかりした機械にとてもよく似ている。機械が動くのは、全パーツが正常に機能しているからだ。文法がおそろかでは、元々の設計がぐらつくばかりか、ギアに砂が入ったり、パッキンのサイズを間違ったりしてしまう。

【本文P54より】

連載「エディターズレター」の中にあった記事のひとつに「思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていること」というものがありました。上記の部分を読んで、そこに書かれていたことを思い出しました。

自分の「得意なこと」や「個性」について考えるとき、人はどうしても「苦労して手に入れたもの」や「時間をかけて身につけた技術」のことを思い浮かべがちです。しかし、あなたが時間をかけて身につけた技術というのは、実は他の誰かも時間をかければ身につけられるものです。

思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていること

ル=グウィンは「文法がしっかりした文は、整備のしっかりした機械にとてもよく似ている」と書いていますが、それは引用した箇所にもある「時間をかけて身につけた技術」によってなりたつものではないでしょうか。だからこそ、整備工の技巧のようにしっかりと身につけておきたいものです。そのためにも収録されている練習問題もやってみてください。

読書案内

 ヴァージニア・ウルフの思想や作品は、それ自体がすばらしいだけでなく、いかに書くべきかと考えている者にも有益である。わたしの耳にはウルフの文体のリズムが、英語でなされた創作のなかでも最も繊細で力強いものとしてひびく。

【本文P71より】

ここで取り上げられているヴァージニア・ウルフは20世紀モダニズム文学の主要な作家のひとり。代表作は『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『オーランドー』『波』などがあります。
2021年に早川書房から刊行90年後、45年ぶりの新訳として出版された『波』を私は読みましたが、ウルフ文学の到達点とも言われている作品なのでこちらもぜひ読んでみてください。


「第4章 繰り返し表現」

 名作小説の多くでは、第一章にたくさんの要素が詰まっていて、それぞれかたちは異なるけれども、それが作品全体を通じて変奏されながら繰り返されることになる。 散文では、こうして言葉・フレーズ・イメージ・出来事などが高まりながら繰り返されるが、これが音楽構成の再現部や展開部にも似ている点がまた、なるほど深いわけである。

【本文P87より】

最初の章にあった要素がそれ以降の章では形を変えながら現れてくること、全体を通じて変奏されながら繰り返されるというのを読んで、「なるほど」と思いました。特にエンタメ小説など先が気になってどんどんページをめくってしまう作品はこういうパターンをもっているように感じます。

目的を達成するまでには、当然それを妨げる要因がたくさん出てくる。障害をひとつずつ解決して目的に近づいていくのが、本筋である二幕です。三場が「一番低い障害」、四場は「二番目に低い障害」とあるように、障害はだんだん難しくなっていかないとダメなんです。ここをおもしろく書けるかどうかが、プロになれるかなれないかの境目だと僕は思っています。

これで長編が最後まで書ける!三幕八場構成を学ぶ

引用したのは「これで長編が最後まで書ける!三幕八場構成を学ぶ」で作家・脚本家の堺三保さんに解説してもらった一部分です。繰り返していくことは大事ですが、最初に起きるトラブルよりも二番目のものはもっと大きく、あるいは困難なものにしていかないと読んでいる人もワクワクしませんし、物語にリズムが生まれません
特にプロを目指す人には繰り返しを意識しながらも出来事をエスカレートさせることが大事だと堺さんが言われていました。そう考えるとまず最初に起きる出来事やトラブルを設定して、次はどう大きくするのかを考えていくとプロットも書きやすいかもしれません。


「第5章 形容詞と副詞」「第6章 動詞:人称と時制」

「第5章 形容詞と副詞」

 形容詞と副詞は種類も豊富で、よき滋養になる。色彩・生気・迫力などを添えるものだ。とはいえ、不用意な利用や過度の使用があると、やはり文章が肥大化してしまう。
 副詞の示す性質が、動詞そのものに組み込めるのなら(素速く走る→疾走する)、あるいは形容詞の示す性質が名詞そのものに入れられるのなら (獰猛な叫び→咆哮)、散文はすっきり凝縮されてはっきりした表現となる。
 人と話すときにはトゲトゲしい言い方は控えなさいと教わった書き手は、限定詞(〈まあまあ〉〈ちょっと〉など係る語を和らげたり弱めたりする形容詞・副詞)を使いがちだ。

【本文P92より】

形容詞とは物事の性質や状態をあらわし、終止形が「〜い」で終わる自立語です。形容詞は「難しい本」「重い紙」のように、性質や状態などの意味をくわしく説明します。自立語で活用がある用言で、言い切りの形が「い」で終わるという特徴があります。

副詞とは文の中でほかの言葉の意味をくわしく説明する語になります。活用がない体言で、「ゆっくり」「きらきら」「ずいぶん」などが副詞です。副詞は、文の中で他の言葉の意味をくわしく説明する品詞です。副詞が修飾するのは用言(動詞・形容詞・形容動詞)です。体言(名詞)を修飾するのは連体詞なので区別しておきましょう。

ここでル=グウィンが書いているようにトゲトゲしい言い方になったり、冷たい言い方になる人は形容詞や副詞を使わないことが大きく影響しているのでしょう。
例えば、物事をスパっと言い切ってしまう冷徹なキャラクターにしたいなら形容詞や副詞をできるだけ使わないようにするだけでしっかりとキャラが伝わるはずです。セリフなども形容詞や副詞をどう使うかを意識するだけでもキャラが立ちそうです。


「第6章 動詞:人称と時制」

 ひとたび意識にのぼると、創作作品を一人称で書くか三人称で書くかは大きな選択だ。どの人称で物語るか、わざわざ考えなくてもいいときもある。とはいえ時には、〈わたし〉で語り出した物語が行き詰まり、その一人称をやめるしかなくなることもある。〈彼は言った〉や〈彼女は行った〉と切り出した物語が、三人称をやめて〈わたし〉の声に切り替える必要が出てくることもある。物語が立ち往生したり行き詰まったりした場合は、人称を変更するという選択肢も念頭に置くことだ。

【本文P100より】

一人称で書くか、三人称で書くかという問題は小説を書く際に頭を悩ませる問題です。
monokakiでも小説家の王谷晶さんが『「一人称/三人称」って何ですか?』という記事を執筆してくれています。

一人称は、主人公の語りで綴られる物語だ。メリットは主人公の心理や行動を細やかに描写できること、よって主人公をより近く感じてもらえること。キャラクターノベルを書く場合、これは大きなメリットだ。
一方デメリットは主人公がリアルタイムで見聞きしたもの以外は基本的に書けないこと

「一人称/三人称」って何ですか?

三人称は複数のキャラを描写し、状況を俯瞰し、点在する地点で起こった物事も同時に描写ができる。この三人称もいろいろあり、キャラクター一人の視点に沿った一人称的三人称が現代の小説では主に使われていると思う。

「一人称/三人称」って何ですか?

上記の引用したようにそれぞれのメリットとデメリットを把握した上で自分が書こうとしている物語にはどちらがフィットするのかをしっかり考えてみてください。
一人称では主人公が見たり聞いたりしたものしか書けないため、そのことを意識していないと、なんでこんなことを主人公が知っているんだと読み手が混乱してしまうことにもなりかねません。
群像劇やいろんな人物の視点を入れるなら三人称がオススメですが、やはり最近は一人称的三人称が多くなっているので、こちらが書く方も違和感はあまり感じないかなと思います。


「第7章 視点(POV)と語りの声(ヴォイス)」「第8章 視点人物の切り替え」

「第7章 視点(POV)と語りの声(ヴォイス)」

 〈視点〉(POV【ポイント・オヴ・ヴュー】)とは、〈物語の語り手およびその語り手と物語との関係性〉を示す専門用語である。
 この語り手が物語内の登場人物の場合は、〈視点人物〉と呼ばれる。それ以外に視点たりえるとすれば、作者自身にほかならない。
 〈声【ヴォイス】〉とは、語り(ナラティヴ)を論じる際に批評家がよく用いる語だ。書かれたものは音読されるまで声がないものだから、この表現はどんなときも比喩である。〈声〉という用語は、語り手の真正性(オーセンティシティ)を手短に伝えるものとしてもよく使われている(すなわち自分自身の声で綴ること、その人物の本当の声をつかむこと等々を示す)。わたしはこの言葉を素直に実用面から、〈物語を聞かせる単数または複数の声〉つまり語りの声という意で用いている。

【本文P118より】

 語りを一人称から三人称限定に切り替えるには、ただコンピュータに代名詞を置換させて、全体で動詞の語尾を正しく修正させればよし、と思われているふしがある。 ところが事はそう簡単でない。一人称は、三人称限定とは別の声だ。読者とその声との関係性が異なっている――それは作者とその声との関係が異なっているからである。 〈わたし〉であることは、〈彼〉や〈彼女〉であることと同じではない。結局のところ、書き手と読者の両方に求められる想像力がかなり変わってくるのだ。

【本文P123より】

前章での人称をさらに推し進めている章になっています。視点(POV)の問題は物語をどう見せるのか、読まれたいのかという意識や欲望にもかかわってきます。また、一人称で書いていたものを三人称に変える際に、代名詞を置き換えて動詞を修正するとなんとなく違和感がないように思えなくもありません。しかし、実際にやってみると最初から人称を変更して書き始めるほうが楽だったり、文章の違和感を感じなくて済みます。

『想造』段階を経てあらすじを書き、小説本編の執筆に臨んでいれば、執筆中に行き詰まることはまずないと思います。けれども文章表現に悩んでふと手がとまり、煮詰まったと感じることはあるでしょう。書き進められなくなった時には、思い切ってそこまでの数行、あるいは段落ごと消しましょう。なぜなら貴方は袋小路に迷いこんでしまったのと同じ状況だからです。いくら壁を叩いても進路が開けないということは、そこは行き止まりです。その前の分岐まで戻ることです。

あなたの「想造」を整えてくれる本|松岡圭祐著『小説家になって億を稼ごう』

上記は以前に取り上げた松岡圭祐著『小説家になって億を稼ごう』に書かれていたものです。
ここでは書き進められなくなった場合の対処方法ですが、やはり書いている小説でこの人称では無理だ、進められないと感じた場合には最初から人称を変えて書き直したほうが作品にとってもいい結果が出るのではないでしょうか。
物語に対して必要な語りの声(ヴォイス)を捉えるまでしっかりとその作品や登場人物について考える時間も必要になってきます。


「第8章 視点人物の切り替え」

再度の解説:模倣について

 分別があるために盗用を恐れ、なおかつ独創性を個人として崇拝するあまり、学ぶツールとして模倣を意識して行うことをも、つい控えてしまう創作の書き手は多い。詩の講座だと、何某〈風の文体で〉執筆せよ、ある詩集の連やリズムを手本として用いよ、などと学生は指示されることがある。しかし創作執筆の講師は、模倣という考え方そのものを避けるようだ。自分の評価する物語作品を意識してあえて模倣すれば、いい訓練になりえるし、物語作家としての自分自身の声を見つける手段にもなると、 わたしは思う。本書に収めた実例やそのほか何か模倣したい何かがあれば、ぜひやってほしい。大事なのは意識することだ。模倣の際には、いくらうまくいったとしても、その作品は練習にすぎないことを絶対に忘れてはならない。けっして模倣自体が目的なのではなく、自分自身の声で巧みに自在に執筆するという目標に向けた手段なのである。

【本文P164-165より】

茶人であった千利休が提唱した「守破離」という考え方があります。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。 「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。 「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

あなたが一番好きな小説を思い浮かべてみてください。きっと何度も何度も読み返していて内容だけでなく、登場人物の行動や台詞も覚えていると思います。その小説を最初から最後まで書き写したことはありますか?
おそらく多くの人は読んでいても書き写したことはないのではないかと思います。上記でル=グウィンが書いている「模倣」は「守破離」でいうところの「守」にあたります。書き写すことでその小説の文体やリズムをもっと身近に感じられるようになります。それがわかった上で自分の作品を書くと前よりも自分自身の声に意識的になれます。
もし、書きたいけど書けないという状況に陥っている人は好きな小説を最初から最後まで書き写してみてください。


「第9章 直接言わない語りーー事物が物語る」「第10章 詰め込みと跳躍」

「第9章 直接言わない語りーー事物が物語る」

物語世界の創造と説明は、物語内でなされなければならない。それこそSFとファンタジーのとりわけ興味深くも美しいところだ。書き手と読者は、世界構築の上で協力関係にある。とはいえ、実際にやるとなると厄介である。
 愚かにも工夫したつもりなのか、ほとんどありのままの情報が講釈や授業のかたちで垂れ流しにされているなら(たとえば「ああ船長、反物質偽装器の機能を教えてくれないか」なんて発言の後そいつが延々と解説するなど)、SF作家たちのいう<説明のダマ>ができてしまっている。(ジャンルを問わず)本当の技巧のある書き手なら、説明をダマにさせたりしない。情報を噛み砕いて粉にした上で、レンガにしてそれで物語を組み上げる。

【本文P171より】

ジャンル小説においてはその世界構築におけるルールや常識などを説明していかないと読者にはわからないため、説明が多くなりがちです。
王谷晶さんが以前にやっていた下読みの時に感じたことを『「短編/長編」って何ですか?』に書いてくれています。

以前、某エンタメ系小説新人賞の長編部門の下読みをやったことがある。応募者皆もちろん入魂の一作を投稿してくるのだが、練りに練った設定、世界観、イカした主人公の人物像などを伝えたいパッションが溢れすぎて、冒頭の十枚くらいをひたすら「説明」で潰してしまっている作品がいっぱいあった。下読み人はそれでももちろん最後まで読む。仕事だからだ。でもプライベートでそういう前置きが長大な作品を見かけたら、好きな作家のものでもない限り、まず買わない。
無名の作家、新人作家は読者にとって赤の他人だ。赤の他人が出会い頭にいきなりべらべら己の出身地や好きな食べ物などについて一方的に喋りだしたら、それにキュンと来るか? 来ない。来ないのである。自分のことばっか話してないでアンタに何ができるのか、アタシとどうなりたいのか、アタシをどう楽しませてくれるのかさっさと教えてよ、と思うだろう。

「短編/長編」って何ですか?

また、別の視点で海猫沢めろんさんは「Q.設定や世界観はどこまで説明すればいいですか?」でこう書かれています。

ちゃんと描写されていても面白くない作品なんていくらでもあります。逆に説明ばっかりなのに面白いのもかなりあります(特にSF作品にはコレ多いです)。
描写できてても面白くなるわけではありません。なので、説明と描写のちがいは、基本的にはあんまり考えなくていいです。

Q.設定や世界観はどこまで説明すればいいですか?

「説明」に関してはお二人は真逆のことを書かれています。しかし、「説明」がその世界やシステムを巧妙に現わしていて、読ませてしまうほどのものであれば話は違うようです。ただ、新人賞などにおいては冒頭の3ページが大事と言われるので、避けた方がよいでしょう。
SFやファンタジー小説を読むことでプロの作家はどのくらい「説明」をしているのかを参考にしてみてください

多声(ポリフォニー)

 やはり、ここでしばらく複数の声の話をしておきたい。
 あの素晴らしい小説という代物の素晴らしい要素のひとつが、たくさんの声がひびくこと、つまりあの多声(ポリフォニー)と呼ばれるものだ。小説のなかで、ありとあらゆる人々が思考と実感と語りを始めるわけで、あの心のあり方の多様さが、この形式の生命感と美の一端となっている。
 この多様な声を作り上げるためには、物まね芸人のような人まねの才能が書き手に必要だと思うかもしれない。だがそれは違う。むしろ自分を登場人物の自我のなかに入り込ませる、本格的な役者の振るまいに近い。心から登場人物になりきって、自身の内側からその人物の思考や発言を浮かび上がらせるのだ。心の制御を、自分の創造したものと厭わず共有するのである。
 自分のものではない声で書くにあたって、書き手には自覚して練習することが必要にもなるだろう。抵抗感があってもおかしくない。

【本文P175-176より】

「多声」と「語り」という点においては『平成小説クロニクル』でも取り上げた町田康さんと古川日出男さん(「語り」と「ダンス」が小説に動きをもたらす)が思い浮かびました。

 町田康と古川日出男の小説は、いっけん共通点が少ないように思える。「超長編」という点では同じでも、物語の進行を意識的に遅延させていく町田と、前のめりに突き進む古川とでは、その文体は対照的といってもいい。しかし、二人の小説には一つだけ共通点がある。それは「語り」(ナラティブ)に対する強い意識だ
 町田康の場合、代表作『告白』が「河内十人斬り」という河内音頭で語り継がれてきた事件を題材にしていることからもわかるように、音楽家としてのバックグラウンドだけでなく、落語や浪曲、音頭といった近世的な芸能のナラティブが身体化されている。古川日出男も自作の朗読パフォーマンスを何度も行っており、テキストを「声」として身体化することにきわめて意欲的な作家である。

「語り」と「ダンス」が小説に動きをもたらす|町田康と古川日出男

町田康さんの『告白』と古川日出男さんの『聖家族』は共に分厚くてそのままで書籍が立つほどのページ数がありますが、どちらも「語り」とそのリズムによってどんどんページが進んでいきます。大長編を読んでみたいという人にオススメです。



「第10章 詰め込みと跳躍」

 アントン・チューホフは、物語の書き直しについてこう助言している――いわく、冒頭三ページをまず投げ捨てよ。わたしも若手作家のころ、短篇小説のことがわかっている人がいるとすれば、それはチェーホフだと思って、この助言を採り入れてみた。実のところ間違いであってほしいと願っていたが、もちろん彼が正しかった。むろん物語全体の長短で分量は変わってくる。ごく短いなら、投げ捨てるのは三段落だけでいい。とはいえ、チェーホフのカミソリに当てはまらない初稿など、そうないはずだ。物語の始めたてでは、誰しもその場でぐるぐる回って、たくさんのことを説明し、導入の必要もないものを導入しがちである。そのあと自分の道が見えてきて、進みだし、そして物語が始まる……だいたいそれが三ページ目くらいだ。

【本文P214-215より】

書いたものを自分で削っていくのは難しいですが、最初にできるだけ多くの要素を入れ込んでいって刈り込んでいくと本当に大事な部分が残っていき、物語の軸もはっきりとしてきます。
スティーヴン・キング著『書くことについて』を取り上げた際に引用した箇所のことを思い出しました。

 あれはリスボン・ハイスクール最後の春のことだったから、一九六六年だったと思う。そのときに受けとった不採用通知の寸評によって、私の原稿の見直し方法は一変した。編集者の署名(印刷されたもの)の下に、こう記されていたのである。”悪くはないが、冗長。もっと切りつめたほうがいい。公式ーー二次稿=一次稿マイナス10%。成功を祈っています”
 はっきりと覚えていないが、これを書いたのはアルジス・パドリスかもしれない。誰にせよ、ありがたいことだった。私はこの公式を手もとにあったボール紙に書き写して、タイプライターの脇の壁に貼った。そのすぐあとから、いいことが起こりはじめた。

あなたの「原動力」を再認識させてくれる本

この「小説の書き方本を読む」シリーズでいろんな小説家による小説の書き方を読んできましたが、やはりプロになるうえで大切なことの一つは多く書くことではなく書いたものをどれだけ削っていけるかということなのだと感じます。また、『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』で何度も出てきた「語り」も作家性としての個性であり、物語を成立させるために重要な要素だと感じました。

書き始めた頃には新鮮だったことや書くことが楽しかった気持ちが、続けていると色褪せたり楽しくなくなっていくことがあります。思うような結果がでなかったり、技術が足りなくて描いていた世界を表現できないなど様々なことが起きてきます。
もちろん、書くことに疲れたら時には休んでみて、違うことをしたり少し距離を置いてみることも心身ともに大事ですし、書き続けるためにも無理はしないでほしいです。そして、また書きたいと思うようになったら小説を書く楽しみを再発見できて、新鮮な気持ちが戻ってくることもあると思います。
この連載が書きたいけど書けない状況になっている人の背中を少しでも押せたり、書きたい意欲に少しでも火がつけれるものになったらと思っています。
『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』はブックガイドとしても素晴らしいので、紹介されている小説を読んでみてくださいそして、練習問題をひとりでも、誰かとでも一緒にやってみてください。もっと小説が好きになるきっかけがあると思います。小説を読んで書いていきましょう。

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