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あなたの「原動力」を再認識させてくれる本|スティーヴン・キング著『書くことについて』|monokaki編集部

こんにちは、「monokaki」編集部の碇本です。

「小説の書き方本を読む」の第八回です。前回の冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家 冲方塾・創作講座』では小説家になるために、そして書き続けるために必要なことや目的について参考になったのではないでしょうか。

この連載は取り上げた書籍の一部を紹介する形になっています。そこでなにか引っかかる部分や、自分に響いたという箇所があれば、ぜひ記事を読むだけではなく、書籍を手に取ってもらえればと考えています。

第八回はスティーヴン・キング『書くことについて』についてです。
スティーヴン・キングといえば多くの作品(『キャリー』『シャイニング』『ミザリー』『ミスト』『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』など)が映画化されており、「ホラーの帝王」の異名を持つ、現代のアメリカを代表する小説家です。
また、それらの作品も有名ですが、『ショーシャンクの空に』『スタンド・バイ・ミー』『グリーン・マイル』などホラー以外の作品でも知られています。

『書くことについて』はスティーヴン・キングが自身の人生を振り返った「履歴書」から、「書くこととはーー」「道具箱」「書くことについて」という物書き志望者にはぜひ読んでもらいたいテクニックや執筆する際の気持ち、考え方が書かれているほか、キングが交通事故に遭って死にかけたものの復活した経緯のエッセイ「後書き 生きることについて」も収録されています。
また、「補遺 その一 閉じたドア、開いたドア」という実際に原稿を削る行程を見せるものがあり、「補遺 その二 ブックリスト」「補遺 その三」にはキングが楽しめた本や教えられたところが多かった本のリストが掲載されています。このリストの中には翻訳されているタイトルも多いので、読書の参考になるかもしれません。

スティーヴン・キングの名前を世に知らしめることになった商業デビュー長編作『キャリー』は1974年に発売されました。約50年近くずっとトップランナーとして走り続けた「ホラーの帝王」と呼ばれる小説家は「書くこと」についてどんなことを考えているのでしょうか?

書きつづけるために必要だった最初の読者

 私は覚えている。母の言葉に無限の可能性を感じたことを。豪壮な邸宅に通されて、どのドアをあけてもいいという許可を与えられたようなものだ。そこにあるドアの数はひとが一生かかってもあけられないほど多い。そのときも、いまも、私はそう思っている。
 そのあと、私は自分で書いた。四匹の不思議な動物がおんぼろ車を乗りまわし、行く先々で可哀想な子供を助けるという話だ。リーダーは大きな白ウサギのミスター・ラビット・トリックで、おんぼろ車の運転手でもある。長さは四ページ。鉛筆書き。丁寧な活字体。覚えているかぎりでは、誰もグレイモア・ホテルの屋上から飛び降りたりはしていない。できあがった作品を見せると、母は居間のソファーに腰をおろし、床の上にハンドバッグを置いて、一気に読んだ。どうやら気にいってくれたらしく、笑わせどころではかならず笑っていた。ただし、作品の出来がよかったからか、私を喜ばせたかったからか、そのへんのところはよくわからない。
「これは真似じゃないのね」読み終わると、母は訊いた。私はちがうと答えた。これなら本にできる、と母は言った。以来、今日にいたるまで、これほど私を幸せにしてくれた言葉はない。私はミスター・ラビット・トリックとその仲間の話をさらに四篇書いた。母は一篇につき二十五セントの小遣いをくれて、それを四人の姉妹に見せた。
(中略)
 四篇の作品。一篇につき二十五セント。私がこの道ではじめて稼いだ金である。
【本文31-32Pより】

上記は幼かったスティーヴン・キングが初めて自分で書いたオリジナル小説を読んでもらった時の話です。この「履歴書」パートを読んでいる限り、キングは裕福とは決して言えない生活を幼少期からずっと続けてきましたが、小説を書くことだけはやめませんでした。そして、彼のことを信じる母と現在まで続くパートナーとなるタビーという女性たちがいたからこそ、彼は書くことを諦めなかったのだとわかります。彼女たちはキングにとって最初の読者であり、彼女たちのために書き続けてきたとも言えます。
あなたにとって一番最初に読んでほしい読者はだれですか? そこが書き続けるための原動力のひとつになるはずです。

『キャリー』を書きはじめたころ、私はハンプデンの近くの町の高校で英語教師の職を得た。年俸六千四百ドルというのは、クリーニング屋が時給一ドル六十セントだったことを考えると、よさげに見えるが、放課後の職員会議や、家に持ち帰ってする採点の時間を計算に入れたら、そんなに驚くべきものではないことはすぐにわかった。実際のところ、私たちの暮らしぶりはどれほどもよくなっていなかった。
(中略)
 ハンプデンで教師勤めをした二年のあいだに(夏休みにはニューフランクリン・ランドリーでシーツを洗っていた)、妻のタビーの果たした役割は決定的に大きかった。ポンド・ストリートの借家のポーチや、ハーモンのクラット・ロードのトレーラーハウスの洗濯室で、私はひたすら小説を書きつづけていた。タビーがその時間を無駄なものだったと言っていたら、私の心は確実に折れていただろう。だが、タビーはただの一度も懐疑的な言葉を口にせず、当然のことのようにひたすら私を励ましてくれた。
(中略)
 翌日、学校から戻ってみると、タビーがそれを手に持っていた。屑かごを空にしようとしたときに見つけたので、煙草の灰を払ってから、くしゃくしゃになった用紙を広げ、椅子にすわって読んだという。この先が知りたいから、ぜひ書きつづけてほしいとのことだった。女子高生のことを何も知らないと言うと、その部分については力になれると言ってくれた。そして、ちょっと顎を引き、例の愛くるしい笑顔を見せた。
「この作品には何かがある。請けあってもいいわ」
【本文92-99Pより】

キングが小説家として世に出ることになり、フルタイムの小説家として活動していくきっかけとなった長編ホラー小説『キャリー』ですが、実はキング自身が書いたものをボツにしてゴミ箱に捨てていたのです。
タビーが見つけて読んで、キングに続きを書くように促したことでまさに九死に一生を得た形となります。書いて形にしておくとこんなチャンスが巡ってくる可能性があるかもしれないと勇気づけられるエピソードです。

この「履歴書」のパートでは幼少期に小説を書きはじめたこと、母と兄とのこと、そして大学で出会ったパートナーのタビー、生活は苦しくてもひたすた書きつづけた日々のことが書かれています。
『キャリー』の大ヒットでスティーヴン・キングは小説家として食べていけるようになりますが、その成功と引き換えにするように彼はドラッグとアルコール中毒になっていきます。光が大きい分、しっかり大きな闇も抱えてしまいます。ずっとアル中だったため、あの『シャイニング』を書いた時の記憶はないそうです。

『書くことについて』(文庫版)ではこの「履歴書」が約三分の一近くを占めます。キングが小説家になっていく過程を知りたい人はぜひ読んでみてください。
この本の中でキングは、ひとりの作家が書けるテーマはさほど多くはないと語っていますが、その人だけが経験してきた事柄や家族関係、生まれ育った環境が創作には嫌でも表れてきます
キングが「ホラー」を書き続けた理由も、この「履歴書」を読むと少しはわかる気がしてきます。


最初に頭に浮かんだ言葉がいちばん強い

 ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でもいいし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい。拳を固め、目を細め、誰かをこてんぱんにやっつけるためでもいい。結婚したいからでもいいし、世界を変えたいからでもいい。動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰りかえす。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。
 恭順を求めているわけではないし、疑問を抱くなと言っているわけでもない。偏見をなくせとも言っていないし、ユーモアのセンスを捨て去れとも言っていない(むしろ、大いに持っていてもらいたい)。それは人気投票ではない。モラルのオリンピックでもなければ、礼拝式でもない。ものを書くのは、車を洗ったり、アイラインを引いたりするのとはちがう。あなたがこのことを真摯に受けとめられるなら、話を続けよう。でなかったら、この本を閉じて、ほかのことをしたほうがいい。
【本文142Pより】

小説を書く理由は人それぞれです。有名になりたい、ベストセラーを出して印税生活したい、なんら問題ありません。
キングはその理由に関してはどんな理由でもいいと言っています。だが、しかし、書くなら適当な気持ちでやるな、と言っています。あなたが真摯な気持ちで向き合うことが小説を書く最低限の条件になるのです。最初は気軽な気持ちでいいと思います。ただ、作品を仕上げていくとなると適当な気持ちでは難しいという話ですね。

語彙に関しては、最初に頭に浮かんだものを使ったほうがいい(よほど的はずれだったり、精彩を欠くものではないかぎり)。ためらったり、思い悩んだりして、別の言葉を選んでも(別の言葉はいくらでも見つかる)、たいていは最初に思いついた言葉に及ばない。意図したものから遠ざかる場合もしばしばある。
(中略)
 大事なのは、それが適切な表現かどうかである。
【本文156-157Pより】
 私に言わせるなら、優れた描写というのは、すべてを一言で語るような、選びぬかれた少数のディテールから成りたっている。そして、それは頭に真っ先に浮かんだものであることが多い。最初はそれで充分だ。変えたり、加えたり、削ったりするのは、あとからいくらでもできる。
【本文223Pより】

小難しい文章が良いわけではなく、その物語や展開のうえで適切な表現になる言葉を選ぶことが大事になってきます。こういう場合は自分が書いているジャンルや書きたいと思っている先行作品などを読むことで、どのくらいの語彙が使われているのかを知ることも必要になってきます。
難しすぎず、簡単すぎない。適度な言葉が頭に浮かぶようにインプットをしていきましょう。

 下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。自分の楽しみのために書くなら、不安を覚えることはあまりない。そういうときには、先に言ったような臆病さが頭をもたげることはない。だが、学校のレポートや、新聞記事や、学習能力適性テストなどを書くときには、不安が表に現われる。ダンボは魔法の羽根で空を飛ぶ。われわれが受動態や副詞にすがるのは、この魔法の羽根を借りたいからだ。が、ここで忘れてならないのは、ダンボは生得のものとして魔法の力を持っており、羽根がなくても空を飛べるということである。
 あなたは自分のことがよくわかっているはずだ。自信を持ち、能動態でどんどん書き進めていけばいい。それで何も問題はない。”彼は言った”と書くだけで、読者はそれがどんな口ぶりだったのか(早口か、ゆっくりか、嬉しそうにか、悲しそうにか等々)分かってくれる。
(中略)
 いいものを書くためには、不安と気どりを捨てなければならない。気どりというのは、他人の目に自分の文章がどう映っているかを気にすることから始まる、それ自体が臆病者のふるまいである。もうひとつ、いいものを書くためには、これからとりかかろうとしている仕事にもっとも適した道具を選ぶことだ。
【本文170-171Pより】

他人に見られるということが不安に繋がるという話です。「Web小説定点観測」の中で「読者のためではなく、自分のために書く小説」というテーマがありました。
不安になる人はまず他者の目を気にしない自分のためだけの小説を書いてみるのがいいと思います。王谷晶さんに連載してもらっていた「おもしろいって何ですか?」で取り上げた「「読者受け」って何ですか?」も参考になります。

小説の書き方本や創作に関する書籍をいくつか読んでいくとわかるのですが、基礎というか根本は「自己啓発系」に近いものがあります
どちらも大事なのは目標を達成する「自己実現」という部分が共通しているからです。
上記の引用を読んでいると、以前取り上げたジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』についての記事「あなたの「書きたい」気持ちを高める本」のことを思いだしました。
これからなにかを始める時や一念発起しようという時にはこのような鼓舞してくれる文章が力を与えてくれます。問題はこれらのものを読んだ側が書かれていることを実行するかどうかにかかってきます。「ダイエット本を読んだだけでは痩せられない」というのは有名な話です。


ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物

 作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。
(中略)
手に取った本にはかならず何かを教えられる。概して優れた作品より、出来の悪い作品からのほうが教わるものは多い。
【本文192-193Pより】
 読むことが何より大事なのは、それによって書くことに親しみを覚え、書くことが楽になるということである。これで、あなたは記載漏れのない資格認定書と身分証明書を持って、作家の国へ移り込むことができる。読書の習慣は、我を忘れて書くことに没頭できる場所へひとをいざなう。
【本文200Pより】

たくさん読もうというのは、「monokaki」が物書き志望者に、創作者になりたい人にずっと言い続けていることです。プロの作家や書き続けている人はほんとうにたくさん読んでいます
もし、あるジャンルにおいて世に出たいと思うのなら、興味の赴くままにそのジャンルの古いものから新しいものまでいろんな作品に触れてみてください。読めば読むほど、読みたいものが増えてくるはずです。それがあなたの基礎になっていきます。そこから興味が広がった違うジャンルであったり、ノンフィクションを読んだりもしてほしいです。

 私の日課はじつにわかりやすい。午前中は執筆。午後は昼寝と手紙。夜は読書と家族団欒、テレビでレッドソックスの試合、どうしても後まわしにできない改訂作業。というわけで、原則として、執筆は午前中ということになる。
 いったんとりかかったら、よほどのことがないかぎり中断もしないし、ペースダウンもしない。毎日こつこつと書きつづっていないと、頭のなかで登場人物が艶を失い、薄っぺらになってしまう。語り口は切れ味が鈍り、プロットやペースを制御することができなくなる。
【本文203Pより】

多くの人が自分の仕事や学業などをしながらの執筆をされているはずです。
「Web時代の作家たち」でお話を伺った望月麻衣さんはこんなことを言われていました。

「予約投稿」とかもあるのでなるべく休まずに、書いたものを少しずつアップしていくこと。完結後は、間を開けずにその次の作品を用意しておく感じですね。

ウェブに小説をアップしている人は毎日少しでもいいのでアップすると決めたり、一日何文字、何ページ書くと決めてルーティン化することで執筆力を高めていけるはずです。

 私の考えでは、短篇であれ長篇であれ、小説は三つの要素から成りたっている。ストーリーをA地点からB地点に運び、最終的にはZ地点まで持っていく叙述、読者にリアリティを感じさせる描写、そして登場人物に生命を吹きこむ会話である。
 プロットはどこにあるのかと不思議に思われるかもしれない。答え(少なくとも私の答え)は”どこにもない”である。プロットなど考えたこともないと言うのは、一度も嘘をついたことはないと言うのと同じだ。けれども、どちらもその頻度をできるだけ減らそうとはしている。プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。どんなに合理的な予防措置を講じても、どんなに周到な計画を立てても、そうは問屋がおろしてくれない。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然に生まれでるのは、相矛盾することだから。この点はよくよく念を押しておかなければならない。ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ。作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである。
【本文216-217Pより】

キングはプロットについて考える頻度をできるだけ減らそうとしていると書いています。また、プロットに重きを置かない理由はふたつあり、その理由も理解できるものです。
だからと言ってプロットなんかいらないというわけにはなりません。まず、書きはじめたばかりの人であれば、プロットに従って書いていくことを何作か繰りかえしたほうが最後まで書き切れます。書きはじめて間もない人がプロットもなく書くというのは、真っ暗闇の中でライトの明かりもなく進むようなことに近いです。
プロットってどうやったらいいのという人は下記の記事を読んでみてください。

 あるとき、私は<ニューヨーカー>のインタビューのなかで、ストーリーというのは地中に埋もれた化石のように探しあてるべきものだと答えた。聞き手のマーク・シンガーが信じられないと言うと、私は自分がそう信じているとわかってもらえたらそれでいいと答えた。実際、私はそう信じている。ストーリーは観光土産のTシャツや任天堂のゲームボーイとはちがう。ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない。なかには貝殻のように小さなものもあれば、太い肋骨と鋭い歯を持つティラノサウルス・レックスのように巨大なものもある。だが、発掘のテクニックは基本的に変わらない。それは短篇小説にも千ページを超える長篇小説にも当てはまる。
 どれだけ腕がよく経験豊かな者でも、化石をまったくの無傷で掘りだすのはむずかしい。できるだけ傷をつけないようにするには、シャベルではなく、エアホースとかパームピックとか、ときには歯ブラシとかの繊細な道具が必要になる。プロットは削岩機のような馬鹿でかい道具だ。削岩機を使えば、固い土から化石を取りだすのは簡単だろう。それは間違いない。だが、そうすると化石が粉々になってしまう。削岩機は粗暴で、無個性で、反創造的である。私に言わせれば、プロットは優れた作家の最後の手段であり、凡庸な作家の最初のよりどころだ。プロット頼みの作品には作為的で、わざとらしい感じがかならず付きまとっている。
【本文217-218Pより】

ほんとうに物語を書くという事に関して巧みな描写だと思う箇所です。
物語が空から降ってくるという言い方をする人もいますが、地中に埋まっている化石を探し当てるものだとキングは書いています。
化石をできるだけ無傷で掘り出すためにはさきほど出てきた「いい加減な気持ちで書くことだけは許されない」ということに繋がっているのでしょう。


作品のテンポよくするための公式「二次稿=一次稿マイナス10%」

 ひとりの作家が(四十以上の作品を書いている者でも)さほどに多くのテーマをかかえているとは思えない。どれだけ多くの事柄に関心を持っていたとしても、小説の原動力となるものは数えるほどしかない(それを強迫観念と呼ぶつもりはない)。
(中略)
 重ねて言う。そんなに大袈裟に考えることはない。それは私の生活や思考から出てきたものであり、少年時代から現在に到るまでの体験の産物である。夫、父、作家、あるいは愛する者としての役割に起因するものである。一日の終わりに、ひとりきりになって、明かりを消し、片手を枕の下に入れて、闇を見あげたときに頭に浮かんでくるものである。
 ひとにはそれぞれの考えがあり、興味があり、心配ごとがある。私と同様、それは長い人生のなかでの体験や冒険から生まれたものであるにちがいない。そのなかには、私が先に述べたテーマに似ているものもあれば、まったくちがうものもあるだろう。が、いずれにせよ、誰にだってかならず何かを持っているはずだ。それを使えばいい。万能とは言わないが、役に立つもののひとつであるのは間違いない。
【本文277-278Pより】

「エディターズレター」の「思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていること」という記事の中で、

一見ネガティブなものかもしれません。 頭の中に染みのように残って、振り払っても振り払っても拭えない強迫観念のように、「このことについてならこの10年くらい考えてるかも……」というものがあれば、それがあなたの個性です。

というものがありました。

個性やセンスというものは実は本人が気づきにくいものだったりします
自分にとって当たり前だと思っていることが他人にとってはそうではないということがあります。そして、何作も書いていく中で、書き手が無意識に書いてしまうテーマや構造というものがあります。
誰かと話したりウェブでやりとりしたり、作品を読んでもらった感想からわかる自分だけの個性やセンスというものがあります。自分の個性やセンスに悩むことがあったら他者との会話ややりとりの中で見つけるのがいいかもしれません。

 原稿をどれだけ寝かせたらいいかはひとによってちがうが、私は六週間を最低の目安としている。その間、原稿は机の引きだしのなかで眠っている。パン生地と同様、発酵、熟成してくれたらしめたものだ。あなたはその原稿のことが気になってならず、何度もそれを取りだしたいという衝動に駆られるだろう。我ながらうまく書けたと思う箇所をもう一度読んで、自分に作家としての才能がどれだけあるかを見たいと思うのは当然のことだ。
 だが、誘惑に負けてはならない。実際に読んでみれば、思っていたほどではなく、その場で書きなおさずにはいられなくなるかもしれない。それならまだいい。より悪いのは、読んだところが、思っていたよりもずっとよく見えたときであるーーだったら、余計なことをして時間をつぶす必要はない。いますぐ見直し作業に入ろう。機は熟している。おれはシェイクスピアだ!
 いいや、それは違う。機はまだ熟していない。新たにとりかかった仕事に没頭して(あるいは、普段のありふれた日常生活に埋没して)、かつて数ヵ月にわたって毎日数時間をあてた非現実の世界をほぼ忘れかけたときが、ようやく引きだしのなかの原稿に向きあえるときなのだ。
【本文282-283Pより】

こちらの推敲まで書いた小説を寝かせておくという部分は、「小説の書き方本を読む」で村上春樹さんの『小説家という職業』の中でも「養生」するということで出てきました。

作品をじっくりと寝かせたあとで、再び細かい部分の徹底的な書き直しに入っていきます。しっかり寝かせたあとの作品は、前とはかなり違った印象を僕に与えてくれます。前に見えなかった欠点もずいぶんくっきり見えてきます。奥行きのあるなしが見分けられます。作品が「養生」したのと同じように、僕の頭もまたうまく「養生」できたわけです。

寝かせる時間も考慮した上で応募できるような執筆スケジュールを立てることも必要になってきます。一度書き終えてしばらく経ってから推敲して、作品が完成したら、応募できる新人賞やコンテストを探すというのも一つの手です。

 テンポのことを考えるとき、私はいつもエルモア・レナードの”退屈なところを削るだけでいい”という言葉を思いだす。テンポをよくするには、刈り込まなければならない。それは最終的に誰もがしなければならないことである(最愛のものを殺せ。たとえ物書きとしての自尊心が傷ついたとしても、駄目なものは駄目なのだ)。
(中略)
 あれはリスボン・ハイスクール最後の春のことだったから、一九六六年だったと思う。そのときに受けとった不採用通知の寸評によって、私の原稿の見直し方法は一変した。編集者の署名(印刷されたもの)の下に、こう記されていたのである。”悪くはないが、冗長。もっと切りつめたほうがいい。公式ーー二次稿=一次稿マイナス10%。成功を祈っています”
 はっきりと覚えていないが、これを書いたのはアルジス・パドリスかもしれない。誰にせよ、ありがたいことだった。私はこの公式を手もとにあったボール紙に書き写して、タイプライターの脇の壁に貼った。そのすぐあとから、いいことが起こりはじめた。
(中略)
”公式”が教えてくれたのは、短篇であれ長編であれ、小説はある程度までコンパクト化が可能だということである。基本的なストーリーと味わいを損なうことなく十パーセントの削減ができないとしたら、努力が足りないということになる。思慮深い削減の効果はてきめんで、驚くほどと言っていい。それは小説のバイアグラだ。あなたにも効くし、”理想の読者”にも効く。
【本文297-299Pより】

ここでは「二次稿=一次稿マイナス10%」という公式が書かれています。
書き積みあげてきたものを削るというのは辛いですが、やはり書いている際にはライターズハイのような状況になっている場合が多いのです。つい書きすぎていたり、冗長になっている部分は思い切って削ってみましょう。
推敲については「「推敲」って何ですか?」を読んでぜひ参考にしてみてください。

「笑い」と「恐怖」は紙一重だと言います。個人的には「ホラー」映画とお笑いの「コント」はちょっと見方を変えれば反転してしまうなと思って観ている時があります。
エンターテインメントに必要なものの大部分が「ホラー」作品にはあると感じます。その意味で「ホラーの帝王」と異名を持つスティーヴン・キングは「エンターテインメントの帝王」とも言えるでしょう。
『キャリー』での大ヒットから現在に続くまでエンターテインメントを第一線で書き続けている作家の体験や創作に関する考えはきっと物書き志望者にとってよい指針になるはずです。
キングも言っているように「作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない」ということだけは覚えておいてほしいと思います。これからも小説を書いて読んでいきましょう。


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『書くことについて』
著:スティーヴン・キング 訳:田村義進 小学館文庫(小学館)
 ベストセラーを次から次へと生み出す、アメリカを代表する作家が、自らの「書くことについて」を解き明かしした自伝的文章読本。作家になるまでの苦闘物語から始まり、ドラッグとアルコール漬けの作家生活を語る半自叙伝の回想。書くために必要となる基本的なスキルの開陳。いいものを書くための著者独自の魔法の技。そして「書くことと」と「生きること」を重ね合わせる作者自身の人生観まで。ひとりの作家の「秘密」がそこかしこに語られるドキュメンタリー。
 2001年に「小説作法」として翻訳されたスティーヴン・キングの名著を、新たに平明で簡潔な文章で訳した新訳版。新たに巻末には著者が2001年から2009年にかけて読んだ本の中からベスト80冊を選んだリストを掲載。

「monokaki」は、エブリスタが運営する「物書きのためのメディア」です。

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