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あなたの「執筆欲」を昂らせてくれる本|村上春樹『職業としての小説家』|monokaki編集部

こんにちは、「monokaki」編集部の碇本です。
「小説の書き方本を読む」の第三回です。前回のジュリア・キャメロン著『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』の記事も様々な反応をいただけてうれしかったです。
この連載は取り上げた書籍の一部を紹介する形になっています。そこでなにか引っかかる部分や、自分に響いたという箇所があれば、ぜひ記事を読むだけではなく、書籍を手に取ってもらえればと考えています。

第三回は村上春樹さんの『職業としての小説家』についてです。今作はエッセイとしてもおもしろいのですが、長く現役の小説家として作家業を続けていくためのご自身の知恵や体験が書かれていて、作家志望者にも参考になると思い、今回取り上げることにしました。

『職業としての小説家』文庫版のあとがきには、「百人の作家がいれば、百通りの小説の書き方がある」という部分があります。小説というものが肥沃なジャンルであり、小説家はひとりひとり書き方とスタイルを持っているという証左なのではないでしょうか。しかし、他の作家のやりかたを知っても自分の参考にならないと考えるのはもったいないです。
他の作家のやりかたを知ることで、その方法が自分に合う合わない、使える使えないかを知ることはあなたの武器が増えることに繋がり、目指すべき方向性も決まるはずです

『職業としての小説家』は全十二回で構成されています。最後の「第十二回 物語のあるところーー河合隼雄先生の思い出」を除いた第十一回までで私が読んで気になった文章を今回はピックアップしていきます。村上さんの言葉が皆さんの書きたい気持ちをより昂らせてくれるきっかけになればと思っています。

「音楽を演奏する」ように小説を書く

小説というのは誰がなんと言おうと、疑いの余地なく、とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、その間口の広さこそが、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「誰にでも書ける」というのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉になるわけです。
 つまり小説というジャンルは、誰でも気が向けば簡単に参入できるプロレス・リングのようなものです。ロープも隙間が広いし、便利な踏み台も用意されています。リングもずいぶん広々としています。参入を阻止しようと控えている警備員もいませんし、レフェリーもそれほどうるさいことは言いません。

小説というジャンルは、他業種からの参入者にあまり小言を言わないという特徴があります。前回の芥川賞候補にはクリープハイプの尾崎世界観さんの作品がノミネートされていました。町田康さんや辻仁成さんもミュージシャンでしたが、今や小説家という認識になっていると思います。それは単純に小説家が毎年何人デビューして増えたからと言って、その数だけ現役作家が引退に追いやられたりしないということも関係しているはずです。
そう、小説家という職業は限られた椅子を争う椅子取りゲームではありません。すでにある椅子を取りに行くのではなく、あなただけが座れるオリジナルな椅子が置かれている場所を目指す、あるいはその椅子を作ることが必要になります。

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換え(パラフレーズ)の中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。限りのないパラフレーズの連鎖です。開けても開けても、中からより小さな人形が出てくるロシアの人形みたいなものです。これほど効率の悪い、回りくどい作業はほかにあまりないんじゃないかという気さえします。最初のテーマがそのまますんなりと、明確に知的に言語化できてしまえば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってしまうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。

「わかりやすさ」や「役に立つ」という損得であったり、即効性の高いものがますます重宝される時代になってきました。無駄を排除しようという感じもします。
最近では「日本学術会議の任命拒否」問題がありましたが、小説も学術研究もすぐに結果が出るものでもなく、また、部外者にとってわかりやすいものでもありません。そもそも「役に立つ」かどうかわかっているもののほうが少ないのではないでしょうか。
個人的には、「わかりやすさ」と「役に立つ」ということによって、損なわれていくものの多くに人間らしさとかがあるのではないかと思っています。ひとつのことについてじっくり考えたいという人は小説を書くのに向いているはずです。

 小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くというかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。とにかく真夜中にキッチン・テーブルに向かって、新しく獲得した自分の文体で小説(みたいなもの)を書いていると、まるで新しい工作道具を手にしたときのように心がわくわくしました。とても楽しかった。そして少なくともそれは、僕が三十歳を前にして感じていた心の「空洞」のようなものを、うまく満たしてくれたようでした。

小説を書いているときの感覚が「音楽を演奏している」感覚という部分にすごく共感できました。私は文章を書く際にはパソコンのキーボードで打つことが多いのですが、スマホだとうまく文章が書けません。それはキーボードを打つリズムやボタンの返しが関係していると思います。

昔の作家は原稿用紙に鉛筆やボールペンや筆で書いていました。その後パソコンが普及してキーボード入力になりました。そして、今はスホマの普及でフリック入力など画面をタッチする形で執筆する人が増えてきました。中には音声入力の方もいるでしょう。これらはそれぞれに小説を書く際に使う体の部位が違いますそれは文体とも関わってくる問題です

特集「Web時代の作家たち」で作家の方々に「執筆方法」について伺っているのは、その作家さんの文体がどのように出来上がっているのか、その断片だけでも知りたいからです。


「オリジナル」を見つけ出すには自分からなにかをマイナスしていく

 僕がここでいちばん言いたかったのは、作家にとって何より大事なのは「個人の資格」なのだということです。賞はあくまでその資格を側面から支える役を果たすべきであって、作家がおこなってきた作業の成果でもなければ、褒賞でもありません。ましてや結論なんかじゃない。ある賞がその資格を何らかのかたちで補強してくれるのなら、それはその作家にとって「良き賞」ということになるでしょうし、そうでなければ、あるいはかえって邪魔になり、面倒のタネになるようであれば、それは残念ながら「良き賞」とは言えない、ということです。

賞に関するモヤモヤが村上さんに長年あったのでしょう、この「文学賞」における回の文章はちょっと温度が高いというか、怒りまではいかなくても思う所があったのが伝わってくる文章になっています。
そして、大事なのは新人賞を受賞してデビューする場合には、新人賞を受賞することが小説家になるチケットであるものの、そのために書くべきではないし、答えでも結論でもないということです。
大事なのは作家として書き続けていく資格、決意です。その資格や決意を支えてくれるならそれは「良い賞」であり、小説を書く目的を新人賞にすべきではないと言われています。

 僕の考えによれば、ということですが、特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶためには、基本的に次のような条件がみたされていなくてはなりません。

(1) ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。
(2) そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。
(3) その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用元とならなくてはならない。

独自のスタイルがあること、そのスタイルを成長させていく力があること、そのスタイルが人々に浸透していくこと、これらが「オリジナルな表現者」の条件だとのことです。この3つすべてをしっかり満たす必要はないと村上さんはこのあとに書かれていました。「多かれ少なかれ」その3つを満たしていることが「オリジナル」の基本的な条件であるとも。
また、(2)と(3)においては時間の経過がどうしても必要となってきます。つまり「オリジナル」であるためには長く続けていくことが必須になってくるとも言えるのではないでしょうか?

例えば、「ミュージシャンズミュージシャン」という言葉があります。わかりやすくいうと、音楽のプロであり同業者のミュージシャンから支持されているミュージシャンのことです。その場合、一般消費者の受けがよいとは言えないこともありますが、専門家からも高く評価されています。これは小説家にもあてはまります。

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりにも多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。とすれば、とりあえず必要のないコンテンツをゴミ箱に放り込んで、情報系統をすっきりさせてしまえば、頭の中はもっと自由に行き来できるようになるはずです。

ここで書かれている「自分から何かをマイナスしていく」という作業に関しては、文章だけではなく、生活にも活かすことができそうです。
自分では個性だと思っていた部分(文章)を削ったほうが、より個性的になったと言われた経験が私にもあります。時間をかけて作ったものを削っていくのは精神的にもしんどかったりしますが、「推敲」というのはそういう無駄を省いていく作業でもあります。
王谷晶さん連載『おもしろいって何ですか?』の「推敲って何ですか?」を読んでみてみください。


作品を書き上げたら、しっかり「養生」する

小説家になろうという人にとって重要なのは、とりあえず本をたくさん読むことでしょう。実にありきたりな答えで申し訳ないのですが、これはやはり小説を書くための何より大事な、欠かせない訓練になると思います。小説を書くためには、小説というのがどういう成り立ちのものなのか、それを基本から体感として理解しなくてはなりません。「オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない」というのと同じくらい当たり前のことですね。
 まあ世の中は世の中として、とにかく小説家を志す人のやるべきは、素早く結論を取り出すことではなく、マテリアルをできるだけありのままに受け入れ、蓄積することであると僕は考えます。そういう原材料をたくさん貯め込める「余地」を自分の中にこしらえておくことです。とはいえ「できるだけありのままに」といっても、そこにあるすべてをそっくりそのまま記憶することは現実的に不可能です。僕らの記憶の容量には限度があります。ですからそこには最小限のプロセス=情報処理みたいなものが必要になってきます。

商業デビューをした作家さんがインタビューに答えた記事を読めば読むほどわかることがあります。それは多作な人ほど、小説を読みまくっている(読みまくってきた)ということです。本だけではなく、映画や音楽にその他の趣味を自分の作品に取り込んでいる人が多いのに気づきます。
また、自分の好きなものを意識しながら、質の高いインプットをすることが大事になってくると川越宗一さんもインタビューで仰っていました。

マテリアル(素材)に関しては村上さんは下記のようなことも言われています。

長編小説を書くときには、仕事をする時間ももちろん大事ですが、何もしないでいる時間もそれに劣らず大事な意味を持ちます。工場なんかの製作過程で、あるいは建設現場で、「養生」という段階があります。製品や素材を「寝かせる」ということです。ただじっと置いておいて、そこに空気を通らせる、あるいは内部をしっかりと固まらせる。小説も同じです。この養生をしっかりやっておかないと、生乾きの脆いもの、組成が馴染んでいないものができてしまいます。
 そのように作品をじっくりと寝かせたあとで、再び細かい部分の徹底的な書き直しに入っていきます。しっかり寝かせたあとの作品は、前とはかなり違った印象を僕に与えてくれます。前に見えなかった欠点もずいぶんくっきり見えてきます。奥行きのあるなしが見分けられます。作品が「養生」したのと同じように、僕の頭もまたうまく「養生」できたわけです。

前回の『ずっとやりかったことを、やりなさい。』の回で、「なんにもしない時間。考えている時間は他者から見れば、ぐうたらしていたり、さぼっているように見えるかもしれません。しかし、創作者にはその時間が必要になってきます。」と書いたのですが、上記の部分はそれと近いものがあります。
「養生」といって、製品や素材を「寝かせる」時間が大事になります。小説を書き終えるとすぐに賞に応募したりしてしまいがちですが、一度「養生」させる時間を作ってみましょう。

 とにかく書き直しにはできるだけ時間をかけます。まわりの人々のアドバイスに耳を傾け(腹が立っても立たなくても)、それを念頭に置いて、参考にして書き直していきます。助言は大事です。長編小説を書き終えた作家はほとんどの場合、頭に血が上り、脳味噌が過熱して正気を失っています。なぜかといえば、正気の人間には長編小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体にはとくに問題はありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。

正気を失っているからこそ、作品をしばらく置いておく「養生」の時間が必要だということがよくわかります。
また。「書き直しにできるだけ時間をかけます」という部分を読んで、以前「新人賞の懐」でお話を伺った「R-18文学賞」に西山さんが言われたことを思い出しました。

その場の勢いだけで書かれたものは正直わかります。プロの作家の方は、読み手が思っている以上に原稿を直されているはず。以前、森見登美彦さんが、「書く時間より直す時間を多く取るべき」と仰っていて、これは本当にそうだなと……。たとえば途中で視点がねじれているとか、台詞の発話者がわからないとか、そういった部分は読み直すことで防げるはずなので。

長い作品を書き上げることはとても労力のいることです。だからこそ、書き上げただけで終わらずに、少し時間を置いて書き直すことでより緻密であなたにしか書けない作品になります。しかし、書き直しを始めたら、永久に終わらない! という人もいらっしゃると思います。そんな方はぜひ「「終わり方」って何ですか?」も読んでみてください、参考になります。


心の闇の底へ降りていくために必要なもの

 小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。

村上さんの代表作のひとつ『ねじまき鳥クロニクル』では主人公の「僕」が井戸のそこに降りていく描写がありますが、ここで書かれている「心の闇の底に下降していく」ことが物語の中でも展開されたと考えることができそうです。
そして、自分の「心の闇の底に下降していく」行為が小説を書くということであれば、やはり物事に対して早急に答えを求めるタイプの人は書き手には向かないのかもしれません。

 そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。どの程度必要なのか、数値では示せませんが、少なくとも強くないよりは、強い方がずっといいはずです。そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。僕は小説を日々書き続けることを通じて、そのことを少しずつ実感し、理解してきました。心はできるだけ強靭でなくてはならないし、長い期間にわたってその心の強靭さを維持するためには、その容れ物である体力を増強し、管理維持することが不可欠になります。

かつての小説家は自堕落なイメージがありました。戦前戦中辺りだと今だったら完全にアウトな非合法なものをジャブジャブやって、寝ないで書いていた作家も多かったというのは有名な話です。その結果早死にしちゃってるんですけど。
創作を長く続けるには、やはり資本となる体についても意識していくことが大事になってきます

以前、作家の古川日出男さんが聞き手として村上春樹さんにインタビューした記事の中で、「健全な肉体に宿る不完全な魂」が作家として必要だという話が出ていました。肉体が健全ならば、自分の中に潜む暗い部分、狂気を孕んでいる部分を見つめることができる、それがないと小説は書けないというもので、ものすごく納得したのを覚えています。
Q.執筆する際の健康法を教えてください」でも体のことについて、海猫沢めろんさんがお悩みに回答してくれているのも参考にしてほしいです。

 ものごとを自分の観点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきます。身体がこわばり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなくなってきます。でもいくつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると、言い換えれば、自分という存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは人がこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。

世界は白と黒、二元論ではできていません。自分が信じたものだけが正しいと思うようになってしまうと、周りが敵か味方という単純な思い込みをしてしまうことになります。敵か味方にわけるほうが簡単なので、ある種思考停止だとも思いますが。
自分と感受性や意見が近い作家の本を読むことも大事ですが、真反対であるようなものであったり、興味が沸かないものを読んでみると世界の多様さに気づくことができます


小説というのは自分の内側から湧き上がるもの

 多くの場合、僕の小説に登場するキャラクターは、話の流れの中で自然に形成されていきます。「こういうキャラクターを出そう」と前もって決めることは、僅かな例外を別にすれば、まずありません。書き進めていくうちに、出てくる人々のあり様の軸みたいなものが自然に立ち上がり、そこにいろんなディテールが次々に勝手にくっついてきます。磁石が鉄片をくっつけていくみたいに。そのようにして全体的な人間像ができあっていきます。
ただ自分が好きな人も、それほど好きではない人も、はっきり言って苦手な人も、できるだけ選り好みせずに観察することが大事です。というのは自分の好きな人、自分が関心を持てる人、理解しやすい人ばかり登場させていたら、その小説は(長期的に見ればということですが)広がりを欠いたものになってしまうからです。いろんな異なったタイプの人々がいて、そういう人たちがいろんな異なった行動をとって、そのぶつかり合いによって状況に動きが出て、物語が前に進んでいきます。

苦手な人や嫌いな人を観察するのは正直嫌ですよね。しかし、自分の小説のネタになると思えば、冷静に観察することができるかもしれません。ただのいい人や親切な人ばかり出しても物語は動かず、そして正直なところおもしろくありません。そして、読み手も主人公に感情移入しにくくなる可能性も出てきます。自分が苦手な人を観察して作品に出してみましょう。きっとキャラクターや物語に厚さが出てくるはずです。

ジャンプ小説新人賞2020」のインタビューでも、「人間を観察したり、なんであの人はあんなことを言うんだろうって考える人はキャラクター小説が書ける人。典型的な表現しかしないと、見たことがあるキャラになってしまいますよね。なぜか魅力的だぞというキャラクターは、プラスアルファというか奥行きが全然違うんです」という話がありました。キャラクターに悩んでいる人はこちらを意識してみましょう。

 だいたい小説というのは、あくまで身体の内側から自然に湧き上がってくるものであって、そんなに戦略的にひょいひょい目先を変えていけるものではありません。マーケット・リサーチとかをやって、その結果を見て意図的に内容をかき分けられるものでもありません。たとえできたとしても、そのような浅い地点から生まれた作品は、多くの読者を獲得することはできません。もし一時的に獲得できたとしても、そんな作品や作家は長持ちすることもなく、ほどなく忘れられてしまうでしょう。エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。「多くの人を短いあいだ欺くことはできる。少数の人を長く欺くこともできる。しかし多くの人を長いあいだ欺くことはできない」と。小説についても同じことが言えるだろうと僕は考えています。時間によって証明されること、時間によってしか証明されないことが、この世界にはたくさんあります。

ニーズや市場は商業的には大事であっても、結局のところ、大事なのは創作者の内側から自然に湧き出るものです。あなたが想像する、あなたしか創れないものが時代や場所を越えて届く可能性を秘めています。
もちろん、誰かと比べてしまうこともあります。売れているものやニーズがあるほうへ向かうこともあるでしょう。
しかし、最終的には心の奥の底へ向かう時に必要なのはあなたの内側から湧き出るもの、書きたいという欲望や創作の火という明かりなのではないでしょうか。小説を読んで書いていきましょう。


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『職業としての小説家』
著:村上春樹 新潮社文庫(新潮社)
「村上春樹」は小説家としてどう歩んで来たか――作家デビューから現在までの軌跡、長編小説の書き方や文章を書き続ける姿勢などを、著者自身が豊富な具体例とエピソードを交えて語り尽くす。文学賞について、オリジナリティーとは何か、学校について、海外で翻訳されること、河合隼雄氏との出会い......読者の心の壁に新しい窓を開け、新鮮な空気を吹き込んできた作家の稀有な一冊。

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