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あなたに「小説とは何か」と問いかけてくれる本|保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』|monokaki編集部

こんにちは、「monokaki」編集部の碇本です。

「小説の書き方本を読む」の第九回です。前回のスティーヴン・キング著『書くことについて』では小説家になるために、そして書き続けるために必要なことや目的について参考になったのではないでしょうか。

この連載は取り上げた書籍の一部を紹介する形になっています。そこでなにか引っかかる部分や、自分に響いたという箇所があれば、ぜひ記事を読むだけではなく、書籍を手に取ってもらえればと考えています。

第九回は保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』についてです。
保坂和志さんはサラリーマンをしながら執筆し、『プレーンソング』を文芸誌『群像』に発表してデビューしました。1995年には『この人の閾』で芥川賞を受賞し、その後も谷崎潤一郎賞、平林たい子文学賞、野間文芸賞、川端康成文学賞など大きな賞をいくつも受賞されている小説家です。

また、今回取り上げる『書きあぐねている人のための小説入門』以外にも、『小説の自由』『小説の誕生』『小説 世界の奏でる音楽』といった小説の現状や可能性、保坂さんの小説に対する思考を書いたシリーズもあります。
『書きあぐねている人のための小説入門』を読んで、保坂さんの考えに共感したり、もっと知りたいと思った方はそちらも読んでみてほしいと思います。

「Ⅰ章 小説を書くということ」「Ⅱ章 小説の外側から」

「Ⅰ章 小説を書くということ」

 この本では「小説とは何か?」について、かなりしつこく考えていくつもりだ。なぜなら、「小説を書く」とは、「小説とは何か?」をつねに考えながら進行していくべきものだからだが、ここで「小説とは何か?」について、最初の答えが見つかったはずだ。
 それは、小説とは、”個”が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。
【本文16Pより】

冒頭から「小説を書く」ということは「小説とは何か?」をつねに問い続けることだと書かれています
フォーマットに則して書けば作品は書けるかもしれません。しかし、そこに自分という「個」が立ち上がっているのか、そのことにも意識的になることで、よりあなただけにしか書けないものになるはずです。

 自分なりに感じるということは、他人の言葉を鵜呑みにしないところから始まる。たとえば私が「これが小説の中に息づくものだ」と言ったとしても、「息づくもの」という言葉をそのまま持ち歩いていては、小説は書けない。
 ある人が発した言葉には、その人なりの身体性や経験が反映されている。つまり、私にとっては「息づくもの」であっても、Aさんにとっては「本質」という言葉のほうがぴったりくるかもしれないし、Bさんにとっては「音楽性」と言ったほうがピンとくるかもしれない。「小説を書く」とは、まずは他人が発した言葉に置き換えることから始めるのだ。
【本文19Pより】

ここで出てくる「身体性」はのちほども出てきます。小説だけではなく様々な創作物はその作り手の身体性と経験が反映されてきます。もちろん、そこには「小説とは何か?」という思考のようなものももちろん含まれます。

 とにかくいまのまま続けていたら、書くことはできないが、工夫と努力で書く時間は絶対に作れる。一日二時間小説を書くことができればそれで十分だ。二時間あれば三枚書ける。一日三枚書ければ、一か月で九〇枚になる。二〇〇枚くらいの小説なら下書きに二か月、推敲と清書で一か月、三か月もあれば一本書けてしまう。
(中略)
 もし、あなたが二時間で三枚書けないとしたら、それは(1)本当に書きたいと思っていることを書いていないか、(2)すでにあなたが書きすぎているか、のどちらかで、そういう人には書かない時間を作ることを勧める。
 これは、この本でこれから何度もくり返すことだが、ただひたすら書くことより、本を読んだり、コンサートに行ったり、トレッキングに出たり、ガーデニングをしたりすることのほうが意味がある。小説とは、そういうことをしながらいっぱい考えられるものだから。
【本文30Pより】

一日に執筆時間を確保して、その二時間で原稿用紙三枚(1,200字)が書けないのであれば、(1)か(2)のどちらかであると保坂さんは言います。
(2)の人には書かない時間を作ることを勧めていますが、以前に「Web時代の作家たち」でお話を伺った川越宗一さんもインプットについてこんなことをおっしゃっていました。

インプット自体は何でもよくて、単純に小説をいっぱい読めってことではないなと思う。人それぞれなので、キャンプをすることがインプットになるなら、たくさんキャンプに行ったらいい。アウトプットの幅を広げたり、質を高めるインプットとは何なのか考えながら自分にあったやり方を模索していくのが大事になってくるんじゃないでしょうか。

あなたにとってのキャンプやコンサートになるものはありますか? 
自分にとってそういうものがあれば、その時間が小説をより魅力的なものにしてくれるはずです。

 だからまず、あまり次々と書こうとしないで、本当に自分が書きたいことは何なのかをよく考えることからはじめてください。その小説を書きながら、それを書いている時間を通じて自分が考えたいことは何なのかということを考えてください。
 そしてそれが見つかったら、その一作に全力を注ぎ込む。
 よく「次の作品のためにネタを残しておく」という変なことを言う人がいるけれど、いま書いているものが”第一作”にならなかったら、二作目はない。残しておけるようなネタは、たいしたネタではない。つまり、書くに値しない。それが正しく書くに値するネタだったら、いま書いている作品にそれも入れてほしい。どれもあなたという同じ一人の人間が考えていることなのだから、いまの作品に入れられないはずがない。
「でも入れられない」と思うのだったらなおさらけっこうで、入れられないと思うものを入れようと頭を使うことであなたは成長する。
【本文36-37Pより】

今、目の前にある作品に全力を注ぎ込みましょう
全力を出し切ってしまっても、しっかりと書いたあとにはまた書きたいものが浮かんできます。中途半端がやはり一番よくありません。


「Ⅱ章 小説の外側から」

 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の三つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆ではない。
 だから小説は日常思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、ふだん使われる美意識や論理のあり方をつくり出していく。
【本文67-68Pより】

えっ哲学と思った方もいるかもしれません。
今書店に並んでいる『書きあぐねている人のための小説入門』文庫版の帯には芥川賞候補にもなった哲学者である千葉雅也さんから「これが真の小説入門だ。」というコメントが寄せられています。
感覚で書くことも大事ですが、論理的な思考も小説を書く上では必要となってきます。小説を書くためには小説以外の外側の言語空間やその他の芸術を観たり聴いたり感じたりすることは必ずプラスになります。


「Ⅲ章 何を書くか?」「Ⅳ章 人間を書くということ」

「Ⅲ章 何を書くか?」

 学校の授業というのは、成長期にいろいろな型の思考力を養うトレーニングのシステムだから、その一環として、小説を読んでテーマという一側面を考えることは無駄ではないけれど、「小説の豊かさ」というのは、テーマのような簡潔で理知的な言葉で語れば足りるものではなく、繁茂する緑の葉に木の幹や枝が隠されていくように、簡潔な言葉で説明できる要素が、次から次へと連なる細部によって奥へ奥へと退いていくところにある(この「小説の豊かさ」というのは、ひじょうに大事なことです)。
 見方を変えれば、繁茂する緑の葉に隠れた幹や枝を想像することがテーマを考えるということでもあるから、それは書き手でなく読者が考えることだ。
 あえて書き手に引き寄せて言うなら、テーマは書く前に考えておくようなことではなく、書く過程で「そういえば自分はこんなことも考えているんだな」と考える程度のことで、それはつまり、書きながらいろいろなことを考えるというぐらいの意味でもある。テーマのようなものを事前に設定してしまったら、作品の持つ自在な(融通無碍な)運動を妨げることになってしまう。
【本文71-72Pより】
 すでに述べたように、小説とは、一作ごとにまず書き手自身が成長するためのものだから、そのためにはいま自分のなかにあるものをすべて注ぎ込む必要がある。少なくともそう心がけて書かなければ意味がないものだから、「テーマ」という枠の設定は、作品としての仕上げには便利ではあっても、書き手の思考や感受性や記憶の発露に制限を加えてしまうという点で、大きなマイナスになる。
【本文74Pより】

創作をする際に「テーマ」を決めて創るという人もいるかもしれません。また、「テーマ」がないといけないと思い込んでいる人もいるかもしれませんが、なくても書けます
保坂さんは「テーマ」は読者が考えることであり、書く前に考えておくと作品の自在な運動を妨げてしまうと書かれています。
「おもしろいって何ですか?」で「テーマ」について取り上げた際に、王谷晶さんも「小説を書くにあたって「テーマ」というのは別に必須なものではないのだ!」と書かれていました。
「テーマ」については難しく考えないようにしましょう。ただ、保坂さんはこのあとに「テーマ」はいらないが「ルール」を作って作品を書いた方がいいと言われています。デビュー作『プレーンソング』では「悲しいことは起きない話にする」というルールにしたようです。


「Ⅳ章 人間を書くということ」

 小説技法の話をすれば、年齢、学歴、職業、血液型など、登場人物のプロフィールをどれだけ細かく設定しても、それでリアリティが生まれるわけではない。むしろ、そういう履歴書的な要素で登場人物を塗り固めてしまうと、かえって類型的な人物になるのがオチで、登場人物は現実に人と出会ったときに、まず特徴が飛び込んでくるように、一つか二つの特徴だけ書くぐらいの方がいい。
【本文105Pより】

保坂さんは一人の人物につき特徴は一つか二つかでいいと書かれています。
以前紹介した松岡圭祐著『小説家になって億を稼ごう』の中では「実在の俳優さんを七人選び、彼らをメインキャストとして人物を設定していく」と書かれていました。
真逆に見えますが、人それぞれ自分に合ったやりかたがあるので、どちらも試してみて自分がやりやすいほうを選びましょう。

 人はみんなぞれぞれの幼児体験を持ち、それぞれに「人間として成長したい」という気持ちを持ち、それぞれの世界観・人間観を持っている。作者が小説を書き出す前に持っていた意図を超えて、勝手なことをしゃべり出すのが小説の中の会話であって、それによってはじめて作中の人物は存在感を持つことになる。
 また最後につけ足しみたいになってしまったけれど、登場人物はできるだけ多く出すほうがいい。小説としての変化・厚みということももちろんあるが、それ以上に私(書き手)と小説の関係、さらには”私”そのものに関わってくる。
 多くの人物を役割に配置せずに、何をしゃべり何をやるか事前に決めないまま書いていくことで、書き手の”私”についての感じが変わってくる。自我が薄められる、とでも言えばいいか、自明のものと思っていた”私”がそうでもないような気がしてきて、風通しがよくなる、とでも言えばいいか。とにかくその感じは、実際に書いてみてもらわなければわからないが、書いていくうちに確実に”私”が変わっていくはずだ。
【本文122-123Pより】

小説内の「会話」を書くのが得意な人とそうでない人がいると思います。
最初からこういうことを内容でいこうと決めて書いてみて、あとから読み返すとただの説明台詞になったり、登場人物に魅力を感じないやりとりになってしまうことはありませんか?
「yom yom」編集長・西村博一さんによる一問一答の中で印象的だった以下のものです。

「魅力的なキャラクターとは何か」みたいなハウツー的定義は話半分で眺めておき、自分の生み出したキャラの小さな物語をいくつも想像して書いて遊んでみたらよいのではないかと思うのです。私がしばしば作家さんに、「どんなシーンが浮かんでますか?」と聞くのは、キャラ設定がどうやって作中人物の人間像に結びついているのかな、ということが知りたいからなのです。

この引用のように登場人物たちの小さな物語を作って会話ややりとりをさせるとより魅力的な登場人物や会話が書けるようになるかもしれません。ぜひ試してみてください。


「Ⅴ章 風景を書く」「Ⅵ章 ストーリーとは何か?」

「Ⅴ章 風景を書く」

 小説に風景が描かれるようになった理由は、きっと場所と時間を特定する必要があったからだろう。事件とは「どこともわからない場所」で起こるものではなく、場所と密接に結びついているものだからだ。小説はテレビも映画も写真もなかった時代からすでにあったのだから、それがどういう場所なのか読者にまずイメージを伝えなければならない。起源としてはこんなことだったとしても、小説が進化していく過程で淘汰のようなことは起こるはずで、それでもなお小説に風景が書かれつづけてきた理由は、風景が小説に力を与えてくれるからなのではないかと思う。
【本文127Pより】

保坂和志作品を読んでいると日常の風景の描写が素晴らしく、それを読むことで読み手の中に物語がしっかり芽生えていく感触があります。
「風景」に自信がない人は保坂和志作品を読むのもいいですし、この「V章」をぜひ読んでみてください。

同じ石を描いても、一人ひとりの画家によってまったく違うタッチのデッサンができあがるのは、そこに画家の身体が介在しているからだが、小説を書くという行為の中で本当の意味で身体を介在させることができるのは、風景だけなのだ。
 激しい運動として書いたり、抽象的概念を喚び寄せたり、そこに経験や知識や、あるいは書き手自身の世界に対する手触りといったものを重ね合わせなければ書けないのが風景で、それが小説家の「身体」なのだ。
【本文142Pより】

保坂さんは「風景」がその小説を書く作家の「身体」であるという話をされています。そして、「風景」がいかに小説にとって大事なものなのかも次を読むとわかります。

 風景を書くことで書き手は鍛えられ、粘り強くなり、それによって人物の記述も全体の展開も通り一遍の出来で妥協しないで、難しいところでそこに踏みとどまって、何度でも書き直すことができるようになる。小説家が小説を書くことによって成長することができるのは、難しいところで簡単に済まさずにそこに踏みとどまるからだ。
(中略)
 風景が書けなかったら、写真に撮ったり、スケッチをしたりして、それを見ながら書いてみることから始めるのでもいい。とにかく風景を書くようにしてほしい。それをつづければ小説は、文章も内容も展開も、すべてが変わるはずだ。
【本文147Pより】

自分の小説を今よりも違うものに変えたいと思っている人は、「風景」を粘って書いてみましょう。続けるとあなたの作品がより魅力的なものになるはずです。


「Ⅵ章 ストーリーとは何か?」

 人がストーリーの展開を面白いと感じられる理由は、展開が予測の範囲だからだ。その枠をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想以前の「???」しか出てこず、面白いどころか「意外だ」と感心することすらできなくなる。
 ストーリーが「面白い」と思われながら同時に「意外だ」と感じられるためには、ストーリーはある種ルーティン化していたほうがいい。「何が起こるかわからない」とか「これからどうなる?」と思いつつ、読者のほうも、次の展開をすでに二つか三つぐらいの選択肢に絞りこむことができている。
【本文154-155Pより】

読み手の予想を裏切るのは悪い事ではないですが、あまりにも突飛なストーリー展開は読者を置き去りにしてしまいます。ある程度予想できる範囲の中で話が展開したほうが読み手はついてきてくれます。

 読み終わった後に、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えることよりもぜったいに価値を持つ。
 技術なんて何冊も小説を読んでいれば誰でもそこそこ身につくもので、小説の技術なんて「そこそこ」で十分なのだが、小説というもののイメージ、そして、つまるところ「小説とは、どうしてこういう形をしているか」という問いかけを忘れてしまったら、形だけは小説だけど、内側で運動するものが何もないものしか生まれない。くり返すが、遠回りと見えることだけが小説に到る道なのだ。
【本文159-160Pより】

この文庫を読んでいて、いちばん深く頷いたのがこの部分でした。
技術の部分においては、以前に掲載した「エディターズレター」の「思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていること」の回で、

自分の「得意なこと」や「個性」について考えるとき、人はどうしても「苦労して手に入れたもの」や「時間をかけて身につけた技術」のことを思い浮かべがちです。しかし、あなたが時間をかけて身につけた技術というのは、実は他の誰かも時間をかければ身につけられるものです。
本当の「特技」や「個性」というのは、「今日は一日何もしなかったわ……」と思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていることだったり(例:1日12時間Twitter見るとか)、「えっこれって皆は知らないの?」と思うようなことだったり(例:犬の種類を20個くらいすらすら言えるとか)、するのです。

というものがあり、近いものがあると感じました。
ずっとあなたが気になっていることや考えていることがきっと小説に反映されます。もちろん創作における技術は大事ですが、考え続けることがよりあなたにしか作れないものへ導いてくれるはずです。

 まだ小説家としてデビューしていない読者のみなさんは、今のあなたたちのやり方をしていて自分の小説が商業誌に掲載されましたか? せっかく書いたんだからと、自分の書いたものを大事にしていて、それが商業出版に結びつきましたか?
 自分の書いたものをせっかく書いたんだからという気持ちでかわいがっていてはダメなのです。小説家となって小説を書きつづけるのだとしたら、一〇〇枚や二〇〇枚の原稿ぐらいいくらでも書けると思えなければダメなのです。仮に一日三枚ずつ書くとして、一年三六五日でざっと千枚。一〇年つづければ、一万枚になってしまう。書くというのは、それくらいのものなのです。
(中略)
『プレーンソング』はある晩ふいに思い立って書き出したものだけれど、たぶんそのとき私は俗に言う何かをつかんだのだと思う。デビュー作というのはきっとそういうもので、”デビュー作となりうる小説”は、何度も何度も書き直したりしないで出来上がるものなのかもしれない。
【本文184-185Pより】

完成した作品をちょっとずつ修正していろんな賞に出す人がいますが、それはもうやめましょう。毎日少しずつ書いていく新しい文章だけが、きっとあなたの道になります。


「Ⅶ章 テクニックについて」「創作ノート」

「Ⅶ章 テクニックについて」

 たしかに小説を書き出す前には、小説家の頭の中にはさまざまなイメージが去来するし、蓄積されてもいる。その中には、そのまま小説の文章になりそうな具体的な会話や情景もあるけれど、それらはいったん”湯水の如く”捨ててしまったほうがいい。というか、捨てざるをえない。
(中略)
 小説についても同じことが言える。映画や小説のように、ある程度の長さのあるものは、その作品は作者の意図を離れて、作品自体が”運動”している。そして、そこには事前の準備みたいなものを受け付けない力がある。
【本文193-194Pより】

さきほどの完成した作品に通じるものです。たしかに書く前にこういうセリフやシーンが書きたいと思っても、書いているうちにそれとはうまくハマらなくなることはよく起こります。そういう場合は先に決めていたものは捨てて、今まさに運動している作品に身を任せてみましょう

 小説は、ふだん使っている言葉の中に違った意味やリズムを見つけ出すことで成り立っている。そして、そうやって小説のなかで使われた言葉は、もう一度ふだんの言葉に力を与えることができる。小説に限らず芸術表現というものは、通常の言葉や認識を出発点としつつも、そこに別の様相を見つけ出していく行為なのだ。
 反対に、いかにも中身があるかのように見せかけるために小説言葉を多用すると、日常の言葉も痩せていく。
【本文199Pより】

日常生活で話している会話と小説の中の会話はまったく同じものではありません。小説の会話をリアルな世界のやりとりにしてしまうと違和感が出てくることもあります。
「Web時代の作家たち」でお話を伺った凪良ゆうさんが会話についてこんなことを言われていました。

会話の流れはそんなに直さないですね。会話は生き物なので、正しい日本語じゃなくても、「どれだけ流れがいいか」で決めちゃいます。みんな喋り言葉で正しい日本語なんて話さないじゃないですか? 地の文はそれだと困るんですけど、会話は正しくなくていい。
(中略)
会話が生き生きするかどうかは、登場人物の作り込みがすべて。会話自体がおもしろくても、その人が言いそうにないことは言わせられない。シーンに合う「このキャラクターならこう言うだろう」という台詞が綺麗にハマると、生き生きするんじゃないかな。

現実では言わないようなことば遣いでも、小説ではハマって魅力的な登場人物になることがあります。その会話をする空間として先ほど出てきた「風景」もしっかり書いた方がいいのかもしれません。

 私にとって小説の書き出しは、”コンサート会場が暗くなった瞬間”ではなく、”コンサートに行くために家を出たとき”ぐらいに近い。
 この、コンサートに出かけるという比喩は私の個人的なイメージなので、これがこのまま読者に伝わるとは思わないけれど、現実からフィクションに入っていくという意識をそれぞれの人で持つようにしてほしい。「はい、小説です」と言って差し出せば、誰もがそのまま素直な読者になってくれるわけではない。小説として定型化した始まりはむしろ読者をしらけさせることのほうが多い。
 だから、一人ひとりが初めてフィクションを立ち上げるようなつもりで書きはじめることが大切になる。ゆっくり始めるのもいいし、いきなり次の部屋に入っていくように始めるのもいい。いろんな書き出しを書いてみることで、フィクションと現実の距離感の取り方がわかってくるはずだ。
【本文210-211Pより】

小説の書き出し次第で読者を惹きつけられるかどうかが決まるとよく言われます。「Web時代の作家たち」でお話を伺った小野美由紀さんは以下のように言われていました。

文章全体の最初の17%を読んでくれた読者は最後まで記事を読む率が高いというデータがあります。最初にごちゃごちゃ説明したり導入を書いていたら読んでもらえないから、最初の17%でつかむ。それはなにを書くにしても気にしていることですね。だから、どんな小説も、冒頭シーンの1500字でつかむぞと思って書いています。

人によって「コンサート会場が暗くなった瞬間」なのか「コンサートに行くために家を出たとき」なのか好き嫌いや好みは分かれるかもしれませんが、いろんな書き出しを書いてみて作品に合うものを探していきましょう。
投稿サイトでもいいですし、書店でもいいので、小説の書き出しを何作品も読んでみるのもいいかもしれません。そして、好きな書き出しの作品は最後まで読んでみると自分の好きな作品のパターンがつかめるのではないでしょうか?

 編集者を名伯楽といったりするように、創作の指導者は競馬に譬えれば調教師であって、育てることと走ることは違うんだというかもしれないが、馬が馬に走り方を教えることができればもっとずっと速く走るようになるだろう。少なくとも、小説家でない人の意見を聞いて伸びる人と、聞いたために伸びそこなっていた人の二種類がいることだけは間違いない。私は後者のために書いた。
 実作者が自分のライバルを増やすような真似をするだろうかーーという下衆の勘ぐりをする人がいるかもしれないが、小説家は素晴らしい小説を読むことが歓びであり、素晴らしい小説を書く人が一人でも増えることを、いつも望んでいるということをいまここで記憶してほしい。
【本文246Pより】

小説家になるような人はそもそも小説を読むのが好きな人たちです。いろんな作家さんにお話を聞いたり、書かれたものを読んでも、多くの方々は古今東西の新旧たくさんの作品を読んでいて、素晴らしい小説をいつも読みたいと思っています。
村上春樹さんは『職業としての小説家』の中で、どんなジャンルの人でも小説というリングに上がってくるのを歓迎しており、ただ、そこに立ち続けるのは小説に対して真摯ではないといけないとも書かれていました。
実作者が書く小説の書き方の方ががしっくり合う人も合わない人のどちらもいるでしょう。今までのやり方が合わなかったと思う人はぜひ読んで参考にしてほしいです。

このあとにはあとがきがあり、文庫版には「創作ノート」も付いています。この「創作ノート」は作品発表後に作者として書きとめた覚書のような内容です。
保坂作品を読んでから「創作ノート」を読むのもいいですし、「創作ノート」を読んで気になった小説を読んでみるのも、小説を書く参考になると思います。
もし、小説を書くことに悩んでいたり、書き進められない時には、この本に書かれていることがヒントになって前に進めるはずです。自分が小説に対して感じていることや考えていることを見直すことで前とは違うものが書けるかもしれません。これからも小説を書いて読んでいきましょう。


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『書きあぐねている人のための小説入門』
著:保坂和志 中公文庫(中央公論新社)
小説を書くために本当に必要なことは? 実作者が教える、必ず書けるようになる小説作法。執筆の裏側を見せる「創作ノート」を追加した増補決定版。

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